鷲野正明 | |
台湾へ行ったのは、今回が五回目である。高雄もたぶん五回目である。「たぶん」というのは、第一回目の記憶がきわめて曖昧だからだ。パスポートの出入国の記録をみると、始めて台湾へ行ったのは一九八四年八月四日から二六日まで。日本の大学の中文系の教員が台湾政府から招かれて臺灣師範大学の宿舎に泊まり研修した、その時である。団長は都留春雄氏。団員には井口晃氏、川合康三氏、立松昇一氏、張耀雄氏、樋口靖氏、松野正志氏、松本丁俊氏、守屋宏則氏、山口久和氏、亜細亜大の先生(名前を失念した)がいた。その研修の後半で、中型のバスを仕立てて旅行をした、とそこまでは覚えているのだが、どこへ行ったのかまったく覚えていない。 断片的に覚えているのは、港でイカスミで黒くなった何かを食べたこと、これは基隆だったのか? 断崖絶壁の路を通ったこと、これは太魯閣だったのか? バスを降りて歩いて吊り橋のような橋を渡ったところにある温泉旅館、コテージのようになっているところに泊まったこと、これはどこか? 砂浜で海を見たような記憶、外は猛烈な暑さでバスに戻ると凍えるほど冷えていたこと、高雄らしいところへ行ったこと、といった程度である。すこしずつ記憶の糸がほぐれてはまた絡まってしまう。そう、台北では、代々木の東豊書店のカンさんにもお逢いした。 高雄へ行った明確な記憶は、一九九九年九月六日から一〇日まで。河内利治氏(本連盟顧問)とともに学生を引率し、高雄の中山大学で作詩の研修をした。簡錦松教授と会ったのはこの時が始めて。もっとも名前だけは、同じ明代文学を研究していたので知っていた。この研修が楽しくて、作詩の楽しさも知った。その年の十一月には簡先生と学生が来日し、交流した。次の臺灣行は二〇〇五年九月三日から九月一一日まで。藤田梨那氏(本連盟顧問)とともに学生を引率し、日臺の師生ともども大型バスに乗って墾丁・台南・日月潭・台北へと行った。旧英国領事館で作詩していると四社ほどの新聞社が取材に来て、翌日の新聞に我々のことが載った。簡先生の策略だったのだが・・・。台南の芸術大学では地元の人とともに歌を唱ったり詩を吟じたりして交流した。日月潭では手こぎのボートで湖の中にある光華島まで行った。懐かしい思い出である。確実な臺灣行の第三回目は、二年前の二〇一四年三月二四日から二八日まで。千葉県漢詩連盟の海外吟行である。いずれも記録が残り、詩が残っている。 今回は第四回というわけだが、「たぶん」も入れると五回目。旅程は序文に記したので省くことにして、その折々の感想と詩を以下に綴ることにする。 |
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学生と高雄に行っていたとき、簡先生に夜市に連れて行ってもらったり、旗津まで行って刺身を食べたりしたが、一人で高雄の町を歩くことはなかった。今回の旅の愛河遊覧も初めてで、夜風が涼しかった。橋の下を舟が通ると、ピチピチ音がするので見ると、たくさん魚が跳ねているのだった。そこに鳥が音もなくスーと獲らえに来る。 愛河舟遊 愛河舟遊 淸河漾漾彩燈中 清河漾々彩燈の中 舟碎玉波追夕風 舟は玉波を砕いて夕風を追ふ 橋下鱗輝魚潑溂 橋下 鱗輝きて魚潑溂 水禽將獲滑虛空 水禽将に獲へんとして虚空を滑る |
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国立中山大学訪問は、千葉県漢詩連盟では二回目。いつも心温まる持てなしを受ける。簡教授の人柄である。交流会では左の詩の「其の一」を作った。菅原有恒事務局長が隷書で揮毫し、清水蕗山幹事長が吟詠し、簡先生が臺灣語で吟じ、石忘塵教授が絵とともに書き、陳秋宏教授が揮毫し、さらに答詩を簡先生・陳先生・学生が作ってくれた。 再訪國立中山大學 再び国立中山大学を訪ぬ 其一 其の一 千葉扶蘇學苑中 千葉扶蘇たり学苑の中 書香樓上望靑空 書香楼上 青空を望む 愛詩老少再今到 詩を愛する老少 再び今到る 倚舊西灣多好風 旧に倚りて西湾 好風多し 其二 其の二 松鼠雨餘遊碧苔 松鼠 雨余 碧苔に遊ぶ 或奔路上往還來 或いは路上を奔り 往きて還た来たる 時時何拾掌倶合 時々何をか拾ひて 掌 倶に合はす 頻齧頰膨榕樹隈 頻りに齧み 頰は膨らむ 榕樹の隈 其の二の「松鼠」は「蒋公行館」前で学内バスを待っているときに見たリス。猿も清園で見たが、すぐに去って行ってしまったので、詩はまだできない。清園は二〇〇五年に行ったときにはまだなかった。その後、簡先生が自ら土を掘り返し木々を植えて造った。 |
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台東県知本は日本人はほとんど観光では行かない。原住民「九族」の文化が色濃く残り、自然も美しい。宿泊したロイヤルホテルにはプールなどの体育施設もあり長期のリゾートも可能である。晴れた日の夜には、原住民が野外で歌舞を披露するが、今回は小雨がぱらつく寒い日だったのでホテルの広いロビーで披露された。 臺東知本 台東知本 其一 其の一 大樹蒼蒼濃淡交 大樹蒼々濃淡交はり 白煙處處絡長梢 白煙處々長梢に絡ふ 溫泉水滑風光好 温泉の水は滑らかにして風光好し 九族民歌起遠郊 九族の民歌 遠郊に起こる 其二 其の二 那魯灣清心意長 那魯湾は清く 心意長し 點鐘打竹響盈堂 鐘を点じ竹を打ち響き堂に盈つ 可憐歌舞天然妙 憐れむべし 歌舞天然の妙 窈窕山花皓齒光 窈窕たる山花 皓齒光る 「那魯灣」は山地の語で「歓迎」の意。「可憐」は、深い感動をあらわす慣用語。歌も踊りもとてもすばらしく、動きの激しいバンブーダンスは若くないとできない。褐色の肌に白い歯が印象的だった。 |
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三仙台は、伝説によると、呂洞賓、李鐵拐、何仙姑という三仙人が来たことからそう呼ばれるようになったという。知本を出たときは小雨だったが、着いたときは横殴りの風と雨。太鼓橋のような歩道橋を渡ると島へ行くことができる。遠くから橋を眺め、ふと振り返ると紫色の花が雨に濡れ風に震えながら咲いていた。 三仙台 三仙台 強雨強風應阻前 強雨強風 応に前むを阻むべし 渺茫遠望鼓橋邊 渺茫 遠く望む 鼓橋の辺 忽看足下紫花發 忽ち看る 足下 紫花の発くを 自活無心此是仙 自ずから活きて無心 此れ是れ仙 |
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北回帰線は、北緯二三度二六分二二秒に位置する。地図上の、その位置するところを線で結ぶと北回帰「線」となる。臺灣では花蓮県の瑞穂郷と豊浜郷に、また、嘉義県水上郷に北回帰線が通っている。ここでは、穴の空いた高い塔と記念碑が建っている。夏至の日の正午にはこの穴を通って真下に日の光が差すという。 北回歸線 北回帰線 自南一過北回歸 南より一たび過ぎて北に回帰すれば 寒氣侵肌雨滿衣 寒気肌を侵して 雨 衣に満つ 春日太陽何處去 春日の太陽 何処くに去る 近年地軸有相違 近年地軸相ひ違ふこと有らん バスに乗り込むと、知本ロイヤルホテルに宿泊し北回帰線を越えたという証明書をもらった。 |
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タロコにはかつて来たことがあるような、ないような。冒頭に述べたとおりである。断崖絶壁を見ながら、落ちたらどうしよう、上の岩が崩れたらどうしようと心配しながら通った、とおぼろげながら記憶が浮かんでくる。それとも映画化なにかの残像か? 其の一は崖を掘って造った小径を散策したときの詩。其の二は長春祠を遠く望みみての詩。祠には工事で無くなった方が祀られているという。この辺りは立霧溪という。詩の前半は、おぼろな記憶を言ってみた。 太魯閣溪谷 太魯閣溪谷 其一 其の一 小徑羊腸穿石連 小徑羊腸 石を穿ちて連なり 峨峨峭壁欲通天 峨峨たる峭壁 天に通ぜんと欲す 昔人苦處今人樂 昔人苦しむ処 今人楽しむ 瀲灔碧流洗玉鮮 瀲灔たる碧流 玉を洗って鮮やかなり 其二 其の二 昔日乘車山下過 昔日 車に乗って山下を過ぐ 巍巍壓道欲崩多 巍巍 道を圧して崩れんと欲すること多し 今惟遠望長春廟 今は惟だ遠く望む長春廟 立霧靑崖濁浪磨 立霧靑崖 濁浪磨す |
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九份では、まずバスで山の上へ行き、あの有名な坂道・石段を下りた。人混みで迷子にならないようガイドについて行く。ガイドは勝手を識っているのでずんずん下って行くが、譲り合いの精神をもっている日本人は人をかき分けて進むことができない。雨で石段が滑りやすくなってもいるし、店も覗いてみたいし。昼食後自由時間があった。雨が降って寒い。人通りの多い坂道は避け、観光客の行かない路を歩いてみた。 九 份 九 份 石階人衆亂如麻 石階人衆く 乱るること麻の如し 一徑避煩巡舊家 一徑 煩を避けて旧家を巡る 細雨寒中紅已發 細雨寒中 紅已に発く 杏桃躑躅又櫻花 杏桃 躑躅 又櫻花 |
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最終日は久しぶりに青空を見た。故宮博物館は相変わらず人でごった返している。「東坡肉」と「白菜」を見るのに順番待ちをする。我々は朝早くホテルを出たので、スムーズに「肉」を見た。「白菜」は南に新しくできた博物館へ出張中で、なかった。自由時間では二階の書画を見て回った。董其昌展をやっていた。人はまばらで閑か。これでなくては。かつてはいつもこうだったのに、いつからザワザワするようになったのか。 故宮博物館 故宮博物館 臺灣永保得遊觀 臺灣永く保ちて遊観するを得たり 大陸如留今盡殫 大陸に如し留まらば今は尽く殫きん 旅客成群周肉片 旅客群を成して肉片を周り 書畫樓中却靜閑 書画楼中却って靜閑 もし文物が大陸に残されたままだったら、ほとんどは散逸し、さらに文化大革命ですべて無くなっていただろう。臺灣で見ることができてありがたい。 前回のように博物館の前で集合写真が撮れるな、と思いきや、ガイドに急かされてバスに乗り、空港へ。セキュリティーチェックが厳しくなったから、と。実際はそうではなかったが。 |
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今回も記憶に残るすばらしい旅だった。次はどこへ行こうか。 (平成二八年三月二八日) |