日本古代における漢詩文の受容と展開 
小野篁の「求婚書」を巡って 
      講師:国士舘大学文学部 任藤智子准教授  
会場:うえだ別館   日時:平成30年2月11日       

1、 小野篁はどういう人物か

平安初期(九世紀)の学者・政治家。『小倉百人一首』に、有名な和歌「わたの原 八十島かけてこぎ出でぬと人には告げよ海のつり舟」を残し、また、『和漢朗詠集』には漢詩を残している。 
・延暦二十一年(八〇二年)の生誕。嵯峨天皇の近臣・小野岑守(みねもり)の子息で、様々なエピソードの持ち主。腕白な幼少期を過ごしたが、奮起して学問を修め、官人としての勤めについた。
・承和(じょうわ)元年(八三四年)に、遣唐使を命じられたが、遣唐使船が度々漂流・遭難することから乗船を拒否したため、嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐へ流された。このときに詠ったのが、前記の「わたの原・・・」。
・一年後に罪が許されて官人生活に復帰。社会問題となった法隆寺僧善愷(ぜんがい)の訴訟事件(檀家を訴えて泥沼化)に係わり、終止符を打った。また、二人の皇太子に学士(言わば家庭教師)としても仕えた。
・病を得て出仕を止めた後に死去、享年五十一歳。歴史上の正確な事実からうかがえる篁は、生き方の見事な、学識有る官人であった。


2、 漢文で記された篁の求婚書・・・中国の故事や典籍を受容しての影響

・求婚書は、名文辞を撰び集めた漢文集『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』に所収されている四作品の一つの書状。題は「奉右大臣書」。右大臣・藤原三守(みもり)に記されたもので、主旨は「十二番目の息女と夫婦の絆を結んで、婿に入りたい。良いご返事をいただきたい」。
・この書状は、中国の故事や典籍(史記・論語・詩経・文選(もんぜん)・芸文類聚など)をふんだんに用いた見事な内容となっており、格調は高い。まさに「自分はこんなに勉強してきた」と、篁自らの学識を表している。なお、結果として婿に迎え入れた藤原三守は、温厚で学識が高く、官人としても有能であった。
・平安初期は、文人官僚と言われる人々にとっては漢詩文は基礎的な素養であり、この求婚書は、そうした素養の高さを物語っている。 

〈 小野篁の求婚書・書き下し文(カッコ内は口語訳) 〉

「右大臣に奉る 藤原三守  野相公(篁のこと)
學生小野篁、誠惶誠恐して謹んで言(もう)す。竊(ひそ)かに以(おも)えば、仁山は塵(ちり)を受けて、滔漢之勢(とうかんのいきおい)、寔(まこと)に峙(そばだ)てり。知水は露を容れて、浴日之潤(うるおい)、良(まこと)に流れたり。」

(右大臣(藤原三守)に奉る。学生である小野篁が恐れ かしこまり謹んで申し上げます。ひそかに思いをいたしてみれば、仁者(皇帝)が楽しむ山は、塵が積もり積もって天の川に届くほどに高く聳えている。知者が楽しむべき水は露を集めて、日に輝く大海に流れ出る。)

   「是を以って、尼父(じふ)は好みを縲紲之生(えいせつのせい)に結び、呂公は嬪を驛亭之士に附く。
  剛柔之位、得て失ふべからず。配偶之道、其の來たるは尚
(ひさ)し。」

(このように、(仁山も知水もささやかな他者によって大成しているので)、孔子が捕らえられている罪人と親交を結んだり、呂公が駅家の人に娘を嫁に出しているのだ。強いものも弱いものも、その関係は得ることがあっても失うことはできない。男女を連れ添わせるということも古くから行われてきていることである。)

 「傳へ承(うけたまわ)る賢第十二娘(じょう)、四德雙(なら)ぶものなく、六行闕(か)けず。所謂
  (いわゆる)
君子之好き仇
(つれあい)、良人之高き媛(たおやめ)なり。」

(伝え聞くところによるとあなたの十二息女は、婦人の持つべき四つの德を持ち、そのさまは並ぶものもなく、人間として守るべき六つの行い・徳目に欠けることのないすばらしい令嬢であるといいます。いわば、徳の備わった人にとって良い連れ合いであり、賢明で善良な人にとってすばらしき女性である。)

   「篁、才は馬卿(ばけい)にあらざれば、琴を弾くに未だ能(あた)はず。身は鳳史(ほうし)にあらざれ
  ば、簫を吹くに猶拙
(つた)なし。」
     
 (私(篁)は、才能が司馬相如(しば・しょうじょ)に及ばず、求愛のために琴を弾くことはできないし、容姿も鳳史にいたらず、笙を吹いて美女を得ることもできない。)*司馬相如=字は長卿。中国・前漢における賦(ふ)の最高の作家。夫に死別した卓文君と、中国の歴史に記録される最初の恋愛・駆け落ち事件を起こした。

   「獨り寒窗に對(むか)ひて、日月之易く過ぎたるを恨み、孤(ひと)り冷席に臥(ふ)して、長夜之
  曙
(あ)ざるを歎く。幸に願はくば、府君之恩許を蒙むりて、同穴偕老(どうけつかいろう)之義を 
  共にせん。」

(一人で寒い窓辺にたたずみ、たやすく日月が過ぎ去ることをうらみに思い、一人で冷たい蓆に横たわり、長い夜が明けないことを嘆いている。幸運に願うことができれば、先祖の恩恵に満ちた許しを得て、夫婦の絆を固く結びたいと。)*同穴偕老=中国でも日本でも良く使われている言葉で、夫婦が最後まで連れ添いとげること。「同穴」は、死んで穴を同じくして葬られること。

「宵蛾の燭(しょく)を拂ふの迷ひに堪えず。敢て朝藿(ちょうかく)の曦(ぎ)に向くの務めに切たり。
篁、誠惶誠恐して謹んで言す。」

(宵の蛾が灯りに飛び込んで死んでしまうような迷いに陥ることは耐えられないし、また、朝に咲こうとする花のつぼみが太陽に向かって開いていくように勤めを果たしたい。篁は恐れかしこまり謹んで申し上げます。)


3、
 篁亡き後のこの求婚譚の展開・‥歌物語『篁物語』での変容

平安末期(十一世紀後半)に到り、「小野篁」をモチーフ(題材)とした歌物語『篁物語』が登場した。大きくは二部に分かれるが、その第二部は「右大臣の娘の求婚と亡き妹の霊魂との遭遇、そして、妻となった右大臣の娘とのやり取り」が主題。求婚書を受けとった右大臣の三番目の娘が篁の求婚を受諾し、婿に迎えられた。結果として、夫君の栄達・家の繁栄に結びついた。

・前記の『本朝文粋』所収の「求婚書」が素地になって、類似した逸話が収められている『うつぼ物語』や中国の怪奇譚などの影響を受けながら、『篁物語』は十一世紀後半以降に形成されていった。

・以上、日本古代において、漢詩文というものが、九世紀に貴族たちによって大いに受容され(史書の故事や『詩経』『文選』などの字句など)、その受容されたものが、大体十一世紀だが展開・変容し、日本文学という形で結実されていく姿を、小野篁の「求婚書」やそれをモチーフとした『篁物語』を手掛かりに追ってみた。

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