漢詩の面白さ・対句の妙味  
  講演

石川忠久 全日本漢詩連盟会長
 
 
   対句というのは非常に自然な仕組みであり、右が有って左が有るので落ち着く。こういう落ち着く関係を、詩の中でどういうふうに構築していくか、汲めども尽きません。しかも、音(おん)が、音声上の効果というものがある。世界で最も優れた詩は漢詩であると言われる。紀元前十二世紀の「詩経」の頃から、紀元後の八世紀、丁度李白や杜甫の生まれた頃まで、漢詩の完成に二千年掛かっている。その間、漢詩は一度も途絶えなかった。先ず、漢詩が完成するまでの対句を見ていくこととする。
学而不思則罔 学びて思わざれば則ち罔(くら)し
思而不学則殆 思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し
最初に、「論語・為政第二」から。 綺麗な対句です。こういうように詩以外の文章の中でも対句が段々作られてきて、表現が豊かになってきた
熊羆対我蹲 熊羆(ゆうひ)我に対して蹲(うずくま)り
虎豹夾路啼 虎豹(こひょう)路を夾(はさ)みて啼く
話しは飛んで、六朝時代の対句です。曹操の「苦寒行」、曹操は三世紀初めの人。
山を登っていく難行の様子を詠ったもの。飛び掛かろうとしている熊と羆(ひぐま)、路の両側で吼えている虎と豹、同類のもの同士が向かい合っている、如何にも恐ろしい様子。しかし、同じことを二回言っていて、初歩的な幼稚な対句です。
薄帷鑒明月 薄帷より明月を鑒(み
清風吹我襟 
清風我が襟を吹く
曹操と同じ三世紀の終り頃に、阮籍が現れた。阮籍の「詠懐詩」です。 薄いとばりより明月を見、清らかな風が私の襟に吹いてくる。如何にも気持ちの良い、月明かりの晩を詠った。しかし、対句としてよくよく見ると、成程「薄帷」・「清風」は同じ構造だが、「明」と「我」は合わない。色々考えているようだが、完成度はまだまだ低い。なお、この時代は、平仄の関係は未だ有りません。
清風動帷簾 清風帷簾(いれん)を動かし
晨月照幽房 
晨月(しんげつ)幽房を照らす
 張華となると阮籍より三十年ほど後、張華の「情詩」。 清らかな風がとばりやみすを動かし、朝の月が奥深い部屋にスーッと入ってくる。清らかな風、朝の月、非常に良く出来ている。ただ、「帷」と「簾」は並列、「幽」と「房」は垂直、と構造的には合わないが
白雲抱幽石 白雲幽石(ゆうせき)を抱き
緑篠媚清漣 
緑篠(りょくしょう)清漣に媚(こ)ぶ
さて、次の謝霊運は四世紀から五世紀の人、謝霊運の「過始寧墅」、始寧(しねい)の墅(しょ)に過(よぎ)る、です。 この人は、この時代のダントツの詩人。騒乱により中国の中心が北から南へ移る時代、社会が落ち着いてから南の方から登場してきた、素晴らしい詩人です。始寧墅は、大貴族である謝霊運の別荘。「抱く」「媚ぶ」は擬人法で、大変なことだが、謝霊運は初めて擬人法を作り出した片方は、雲が石を抱いている、片方は篠竹がなぎさで枝を垂らして、丁度人が媚びるように水にピチャピチャ浸かっているという、素晴らしい句です。絶唱と言ってもよい詩で、彩りも綺麗。私はこの句に打たれて、卒業論文は謝霊運を取り上げた。なお、この謝霊運の二十歳年上が陶淵明。謝霊運は、この当時のナンバー・ワンの詩人であったが、やがて、陶淵明と逆転する。それにつけても、漢字というものは素晴らしい。字に意味が有る。世界最高の文字は漢字、その素晴らしい漢字が身近に在ることを知らない人が多い。どうかこのことを再認識して、世界最高の文字で作った漢詩を、もっと勉強して欲しい。
余霞散成綺 余霞散じて綺(き)を成し
澄江静如練 
澄江静かにして練(れん)の如し
 次に謝朓、謝霊運が亡くなって三十年後に謝朓が生まれている。謝一族は大貴族で、謝朓は、一族の大先輩の謝霊運を尊敬し、また、影響も受けている。この詩がまた素晴らしい。「晩登三山還望京邑」、晩に三山に登り京邑(けいゆう)を還望(せんぼう)す、長い詩の一部です。
「京邑」は南京、この頃の都で、傍らに長江が流れており、その景色を描いたもの。「余霞」は朝焼けや夕焼けのことだが、多分これは夕焼けのこと。「綺」は美しい絹織物、夕日がパーッと散って綺の如し。片方の「練」も絹織物で、澄んだ川がトローンとして練の如し、水の様子を織物にとらえたのは大発見です前者は色が美しい、後者は静かに練り絹のように色は白、まるで絵画のようにとらえている。未完成のところもあるが、尊敬している謝霊運に負けないくらいの素晴らしい詩である。謝朓は、短い人生ながら、五世紀の詩人としては画期的な活躍をした。同じ五世紀の詩人、陶淵明の詩には、未だ「二四不同」の考えはないが、しかし、謝朓には六割有る。つまり、陶淵明亡きあと謝朓が活躍するまでの間に、中国人は音声的な配列を考え付いた。それは、自分達の言葉が音楽的であることに気付いたからであり、一つの言葉の中に、アクセントではなく抑揚が有ること、四つの声調が有ることに気付き、五世紀の末にこれを利用することとした
山際見来煙 山際(さんさい)に来煙を見
竹中窺落日 
竹中(ちくちゅう)に落日を窺う
次は、五世紀から六世紀にかけての詩人の詩、「呉均・山中雑詩」。 山際に下からもやが登り、竹林の向うに夕日が見える、竹林は透(す)いているので、夕日が落ちてくるのが見通せる。来煙は下から、夕日は上から、下から上からと立体感を出している。綺麗に対をなし、平仄も合っている。音声的な配慮もして、しかも大きな表現の組合せの対句となっている。以上、対句の大きな流れがお分かりいただけたかと思う。
 三世紀の曹操、改めて見れば幼稚な対句だが、その後、六世紀の呉均までの三百年間で、これだけ進歩した。そうして、それまで二句ワン・セットであったが、三百年経って四句ワン・セットと考えられるようになった。これが完成したのが西暦七百年頃、丁度その頃に李白や杜甫が生まれた。

李白は七〇一年、丁度間合いの良い十一年経って杜甫が生まれた。生まれたのがもう三十年早ければ、李白は李白でなく、杜甫は杜甫ではなかった。この二人、家柄や性格も何もかも違うのだけれど、しかし、不思議なことだが、世界最高の詩人二人が同時代に生まれて、しかも知り合って一緒に旅までしている。こんな例は、世界中に一つも無い。

二人は遠慮の無い関係だが、十一歳の年齢差から、年下の杜甫は李白に甘え、そして、李白の良いところをしっかり取って詩を完成させた。得したのは杜甫です。李白は李白で、杜甫に別れる時に、わざわざ五言律詩を作った。李白が別れの五言律詩を作るのは珍しいことで、名家の出ではあるが若い名も無い一介の貧乏書生のために、詩を作った。元宮廷詩人の李白大先生が詩を贈っている、これは大変なことです。しかし、その後、李白はケロッと杜甫のことを忘れたらしい。一方、杜甫は、いじらしいほど李白を慕い、李白を詠った詩を十五首も作った。

李白と杜甫は、世界最高の詩人です。その二人が知り合ったのは、素晴らしい偶然です。因みに、杜甫は、世界一の詩人と自覚していた。それが証拠に、当時は印刷術が無かったため、みんな一々詩を書いた.どうしてそれが残ったかというと、それを書き写していったからで、それによって紙の値段が上がる、「洛陽の紙価を高める」とはこのことです。

したがって、折角作った詩でも無頓着にすると無くなってしまう。良い例が王之渙という詩人で、「黄河遠く上る白雲の間、一片の孤城万仞の山」の「涼州詞」のように、素晴らしい詩を残したが、生涯で六首しか今は残っていない。散失してしまったのだが、これは本人が無頓着であったため。彼は、当時のナンバー・ワンの流行作家でしたが・・。

しかし、杜甫は、一五〇〇首も残っている。これは、杜甫自身が、自分の詩は世界最高と自覚し大事にしていて、亡くなる時も、自分の息子にこのことを良く言い含めた。

また、李白の詩が残っているのは、杜甫に会う前は、足かけ三年という短い期間ではあったが宮廷詩人であったから。この間に築いた名声は消えず、宮廷を追われた後に何処へ行っても、李白の詩を皆が大事にしておいてくれたために残り、亡くなってからそれらが集まった。

なお、宋の時代、つまり十一世紀になると印刷術が発明された。木版とか、これによって大量生産が可能となり、宋以降は、多くの詩が残るようになった。例えば、陸放翁は、今でも九三〇〇首残っている。唐の時代に印刷術が発達していれば、もっともっと多くの詩が残っていたと思われるが。ということで、当時、詩が残るというのは大変なことでした。
風急天高猿嘯哀 風急に天高くして
                   猿の嘯くこと哀し

渚清沙白鳥飛廻 
渚清く沙白くして鳥飛び廻る
無辺落木蕭蕭下 
無辺の落木蕭蕭として下り
不尽長江滾滾来 
不尽の長江滾滾として来る
万里悲秋常作客 
万里悲秋常に客となり
百年多病独登台 
百年多病独り台に登る
艱難苦恨繁霜鬢 
艱難苦だ恨む繁霜の鬢
潦倒新停濁酒杯 
潦倒新たに停む濁酒の杯
杜甫の「登高」を見ますが、この詩を作った時は五十六歳、なお、五十九歳で亡くなっています。蜀の国を離れて、家族を連れて、都へ帰りたい思いを抱きながら、白帝城の辺りに二年間居た。この間に、四百首を作った。大変なことです。つまり、彼の人生五十九年間のうち、この五十四歳から五十六歳までのこの二年間で作った詩は、実に素晴らしい。 これは何と全対格、全部綺麗な対句で、しかも読んだ後に、対句の技巧というのを余り意識させない、技術の跡が見えない。本当に熟している。緊密な対句によって構築されたこの詩、晩年の作です。当時の五十六歳と言えばもう老人で、しかも杜甫は病人でもあった。この三年後に亡くなります
遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き
香炉峰雪撥簾看 
香炉峰の雪は簾を撥げて看る
白楽天は、杜甫が亡くなった二年後に生まれた。お爺さんと孫くらいの違いです。白楽天は当時、今の江西省の九江に居た。「遺愛寺」と言うお寺があり、「香炉峰」という峰があって、三字の固有名詞をうまく使った。
都府楼纔看瓦色 都府楼纔(わずか)に瓦色を看
観音寺只聴鐘声 
観音寺只だ鐘声を聴
  それをうまく真似たのが菅原道真です。「都府楼」と「観音寺」、これも三字の固有名詞です。この作品は、白楽天を真似しているので成程と注目されたが、独立した作品として見ると欠陥は有る。しかし、菅原道真は白楽天をよく勉強した。白楽天が亡くなる前の年に菅原道真が生まれており、入れ替わり。日本人でも、この時代にこんな素晴らしい詩を作った詩人が居たのであります。
気霽風梳新柳髪 気霽れて風は
                  新柳の髪を梳ずり

氷消浪洗旧苔鬚 
氷消えて浪は旧苔の鬚を洗う
平安時代になると、次のような技巧的な作品が出てくる。都良香(みやこのよしか)の作品です。 「梳ずる」「洗う」と擬人法も揃っていて、うまいですねぇ。技巧的な句ですが、平仄もピタッと合っている。都良香は、詩を作ったわけではなく、この二句だけを作った。日本人の貴族でもこのように、対句の良さを夢中になって追求した人達も居たわけです。 
   (文責 宮﨑三郎)