第18回(令和4年)総会 

           4月21日  船橋中央公民館 第4集会室
 
議長:薄井隆理事 

議案               
 1、 令和3年度事業報告  清水事務局長
 2, 令和3年度収支決算報告  根津会計担当理事
 3, 監査報告  八尾監事
 4,令和4年度事業計画(案)  清水事務局長
 5,令和4年度予算(案)  根津会計担当理事
 理事追加及び監事の交代
 追加理事:仲野 滋 氏
 退任監事:八尾 晃 氏
 新任監事:河野幸男 氏
          全員一致での承認   その後、鷲野先生による講演会
 
講演「両国橋の漢詩」

講師:鷲野正明先生
   
 
  一、両国橋紹介

明暦三年(1657)の「明暦の大火」をきっかけに、万治二年(1659)に架橋(一説に寛文元年(1661))。

位置は現在よりも20mほど下流だった。
当初「大橋」と呼んだが、隅田川が武蔵国と下総国の境だったため「二州橋」とも言われた

。のち元禄六年(1693)、隅田川三番目の橋「新大橋」が架橋されたため「両国橋」と正式に改められた。

長さ九十六間(約173m)。
橋の両側に火除地として広小路が設けられ、江戸随一の盛り場として賑わった。
両国の川開きは五月二八日に行われ、七月下旬までの納涼期間中花火が打ち上げられ、江戸庶民を魅了した。

*貞享三年(1686)利根川東遷で武蔵・下総国境が変更されるまで現在の墨田区側が下総国だった。両国橋が正式名に採用された時、東岸はすでに武蔵国。

明治八年に架橋された最後の木橋は、明治三〇年八月一〇日の花火大会のとき、花火見物の客が橋に押し寄せて欄干が崩れ落ちた。『時事新報』に当時の様子を次のように言う。「数十人は箕より豆の落つるが如く一度に川中に墜落し其儘溺死をとぐるもあり橋下の船又は橋柱に身体を打ちつけて重軽傷を負へるものあり、ソレ橋が落ちた、欄干がおちたと泣く声喚く声すさまじく、橋上の人、橋下の船は乱れに乱れ狂ひに狂ひ今迄の歓楽境は忽ち化して修羅場となり」。

この事件を受けて、江戸時代の両国橋の20mほど上流に鉄橋(曲弦トラス三連桁橋)が架け替えられ、明治三七年一一月一四日に開通式が行なわれた。

この橋は大正一二年(1923)九月一日の関東大震災でも大きな被害はなかったが、帝都復興で国が架橋した隅田川六大橋(相生橋、永代橋、清洲橋、駒形橋、言問橋、蔵前橋)とともに現在の「ゲルバー橋」(カンチレバー橋)に架け替えられた。橋長164.5m、幅員24.0mで、昭和七年五月一八日竣工。
 二、両国橋の漢詩
 荻生徂徠(一六六六~一七二八)
  江戸時代中期の学者・詩人。名は双松(なべまつ)、字は茂卿。

 東都四時樂 其二 東都四時楽
兩國橋邊動櫂歌  両国橋辺 櫂歌動(とよ)もす
江風涼月水微波
  江風涼月 水微かに波だつ
怪來岸上人聲寂  怪来す 岸上 人声の寂たるを
恰是扁舟仙女過  恰も是れ 扁舟仙女過ぐ


大田南畝(一七四九~一八二三)
  江戸後期の詩人、狂歌師。名は覃(ふかし)、字は子耜。号は南畝・蜀山人など。

 三月盡夜宴兩國橋西酒樓 三月尽、両国橋西の酒楼に夜宴す
思在芳春欲盡宵  思は芳春尽きんと欲する宵に在り
登樓目送大江潮  楼に登りて目送す大江の潮
喉宛轉三絃子  歌喉宛転たり三絃子
人影婆紗兩國橋  人影婆紗たり両国橋

狂歌
けふのみとかぎれる春の一時もちとせをのぶる心地こそすれ



館 柳湾(一七六二~一八四四)
  江戸後期、越後の人。名は機、字は枢卿。

 雪夜渡兩國橋   雪夜両国橋を渡る
自訝歩虛臻玉淸  自ら訝る 歩虚して玉清に臻るかと
瓊樓瑤閣隔河明  瓊楼瑤閣 河を隔てて明らかなり
長橋不待勞烏鵲  長橋 烏鵲を労するを待たず
直蹈銀龍背上行  直ちに銀龍の背上を踏みて行く


大窪詩仏(一七六七~一八三七)
  常陸国久慈郡袋田村に生まれる。名は行、字は天民。文化三年
(一八〇六)神田お玉が池に詩聖堂を営んだ。

 烟花戲        烟花戯
漠漠江天收晩霞  漠漠たる江天 晩霞収まり
炮聲一響駭栖鴉  炮声一響 栖鴉を駭かす
寒星忽落半空雨  寒星忽ち落つ 半空の雨
火樹能開滿架花  火樹能く開く 満架の花
勢卷潮頭奔水鼠  勢は潮頭を巻いて水鼠奔り
光衝雲脚迸金蛇  光は雲脚を衝いて金蛇迸る
夜深戲罷人歸去  夜深けて戯罷み 人帰り去れば
兩岸蕭疎烟淡遮  両岸蕭疎として烟淡く遮る

 両国の花火は享保一八年(一七三三)に始まったとされる。
五月二八日に始まり、七月下旬まで行われた。


山内容堂(一八二七~一八七二)
  土佐藩十五代藩主。名は豊信(とよしげ)。容堂は隠居後の号。

 墨水竹枝       墨水竹枝
水樓酒罷燭光微  水楼に酒罷(や)みて燭光微かなり
一隊紅粧帶醉歸  一隊の紅粧酔を帯びて帰る
繊手煩張蛇眼傘  繊手(せんしゅ)張るを煩はす蛇眼傘
二州橋畔雨霏霏  二州橋畔雨霏々たり


大沼枕山(一八一八~一八九一)
  江戸後末・明治期の詩人。名は厚、字は子寿。『房山集』他

 兩國橋      両国橋
雪壓橋欄霽景新  雪は橋欄を圧して霽景新たなり
朝装戎服踞清晨  朝装 戎服 清晨に踞す
剛哉一箇幕臣某  剛なる哉 一箇幕臣の某
能制赤城四十人  能く制す 赤城の四十人
 ○戎服ー戦の服。 ○一箇幕臣某ー大石内蔵助。

*赤穂事件  
元禄十四年(一七〇一)三月十四日四つ半時(午前十一時すぎ)
浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介を斬りつける。六つ過ぎ(午後六時頃)
浅野切腹、お家断絶。三月十五日明け方、内匠頭の遺骸を泉岳寺に埋葬。赤穂では、籠城か切腹かで揺れたが、四月十二日、大石内蔵助は、切腹と決定。が、浅野家の親戚筋や江戸の重役らの意見により、赤穂城明け渡しとなり、四月十八日、赤穂城を明け渡す。元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首級を揚げる。両国橋東詰め所で上杉家の討手を待ったが、気配がなかったので泉岳寺へと向かい、首級を主君の墓前に供える。その場で切腹する予定だったが、大名あずかりとなり、元禄十六年(一七〇三)二月四日、四十六士切腹。泉岳寺に葬られた。