R4年 墨東散策両国界隈を探る
 
六月二日(木)、午前九時、両国駅改札口に集合した連盟会員十八名は、青空の下、吟行を開始した。
両国? え? 何で東京都墨田区での吟行?千葉県漢詩連盟は千葉県の名所旧跡を巡るのではないの? そういう声が聞こえてきそうな今回の吟行だが、実は江戸時代の初めのころまでは、ここ両国橋の東側は下総国(千葉県)だったのだ。当然、千葉県漢詩連盟吟行の行ける範囲となる。
というわけで、我々十八名は白雲の湧き上がるような夏の青空の下、両国駅を元気に出発し旧安田庭園へと向かった。

       『旧安田庭園』

 

国技館通りを北上し、国技館・相撲博物館の横を通り過ぎると、すぐ、白壁の小さいが立派な木製の門が見えてくる。ここから旧安田庭園に入る。
この庭園は、元禄元年、本庄宗資により、大名庭園として築造され、明治になり、安田財閥の祖である、安田善次郎の所有となった。その後、東京都が関東大震災によって失われた形態を復元して、都民の庭園として開放、現在は東京都から墨田区に移管されているそうだ。
入場無料。手入れの行き届いた、樹木が木陰を作り、砂利の敷石がシャッカ、シャッカと靴音を鳴らし、鳥声があちらこちらから聞こえる小道を進むと、庭の大半を占める池に行き当たる。心字池という名がつけられているこの池は、江戸時代庭園が造成された折は、隅田川から水を引き込み、潮の干潮によって池の水位を上下させ景観の変化を楽しむ仕掛けがあったそうだ。(今は閉じられている)
池の周りは躑躅が真っ盛り、緑の中に深紅の彩りが見事で水面にその影を投げかけ、水中では鯉、亀たちがのんびりと泳いでいた。なんとも長閑な庭園だった。


   
 安田庭園            青木智江 
入閑庭躑躅繁 一たび閑庭に入れば躑躅繁し
已無塵俗大車喧 已に無し 塵俗 大車の喧しき
枝閒鳥語竹風爽 枝間 鳥は語り 竹風爽かに
波裏龜游池水溫 波裏 龜は游び 池水溫かなり

 
   
 訪舊安田庭園巡心字池  暁風 秋葉曉子
墨水引流心字池 
墨水の流れを引く 心字の池
巡堤風景忽推移 
堤を巡れば 風景忽ち推移す
鯉跳波起龜登石 
鯉は跳ねて波起り 亀は石に登る
意穩相期愉四時 意穏やかなることを相ひ期して四時を愉しまん

 
 
 舊安田庭園        渓燕 市川恵美子  
正門閑入有淸音
 正門閑に入れば 清音有り
綠樹蓁蓁碧水潯 緑樹蓁々 碧水の潯
龜出迎人魚復跳 亀出でて人を迎へ魚復た跳り
遙知恩澤古人心 遥かに知る 恩沢 古人の心  

 
   
 舊安田庭園       蹊山 薄井 隆    
鳥聲恰恰綠陰繁
 鳥声恰々 緑陰繁し  
鯉躍龜遊池水溫 鯉躍り亀遊び 池水温かなり  
騒客案詩徐歩處 騒客詩を案じて徐に歩す処
朝光燦燦遍名園 朝光燦々 名園に遍し

 
                
 訪舊安田庭園      河野幸男
吟行信歩墨江隈
 吟行 歩に信す 墨江の隈
鯉泳龜遊池畔廻 鯉泳ぎ 亀遊ぶ 池畔廻る
綠水紅花香馥郁 緑水 紅花 香馥郁
心淸盡日忘塵埃 心清くして尽日 塵埃を忘る

 
             
 訪舊安田庭園      蕗山 清水義孝
朝光燦燦鳥頻謳
 朝光燦々 鳥頻りに謳ひ
躑躅紅花映水稠 躑躅の紅花 水に映じて稠し
初夏閑庭多興趣 初夏の閑庭 興趣多し
淸風獨占小池頭 清風独り占む 小池の頭

 
              
 遊舊安田邸庭園    荘石 森崎直武           
森然新綠樹陰淸
 森然たる新緑 樹陰清し
躑躅紅花照眼明 躑躅紅花 眼を照らして明らかなり
啼鳥關關枝杪裏 啼鳥関々 枝杪の裏
園池緩歩快吟情 園池緩歩すれば 吟情快し

 
   
 舊安田庭園       八嶋渓風 
庭園佳景輳相思
 庭園の佳景 相思を輳(あつ)め
瀲灔瑤池和者誰 瀲灔たる瑤池 和する者は誰ぞ
偶見羅裙美人踞 偶見る羅裙 美人の踞るを
機心鳥去大楠枝 機心の鳥は 大楠の枝に去る


 
      『刀剣博物館』
  
安田庭園を半周し、入り口と反対側の門から出ると、眼前に近代的なコンクリート造りの四角い大きな建物が建っている。ここは代々木から平成三十年に移転してきた刀剣博物館である。日本刀の保存、公開、普及を目的とした施設で、入館料は団体として七百円。
ガラス張りの入り口を入ると一階は大きなロビーとショップ、情報コーナーがあり、刀の出来るまでが分かり易く図と写真により展示されている。その他に講堂があり、この日は一般の方たちが持ち込みの刀の鑑定事業をしているようだった。
エスカレータで三階まで上がると、全体が大きな展示室になっていた。室内の光を絞り、薄暗い部屋に大刀、小刀、薙刀、刀装などが多数陳列されている。一本一本の刀にスポットライトが当てられ、刃が浮き上がり、刃文が鮮やかに見て取れる。咳の音さえ大きく響く、静かで壮観な部屋だった。又、鍔、鞘、柄などもそれぞれ趣向を凝らしてガラスケース内に陳列されており、それぞれがどのように使われていたか、当時の歴史的な背景を想像しながら見て歩くのはなかなかに楽しいものだった。
刀とは血塗られた歴史的なある場面で使われる事が多いしろものだが、ここに展示されている刀剣には、それよりも精神的に作用した日本人としての心の在り方や所作など儀礼的なものを多く感じ取ることができた。

 



 刀劍博物館     刀剣博物館  翔堂 鷲野正明
幾百刀身如雪霜
 幾百の刀身雪霜の如く
明燈照出愈煌煌 明灯照らし出だして愈いよ煌々たり
誰人持出斷邪氣 誰人か持ち出だして邪気を断つ
静寂室中蘭蕙芳 静寂室中 蘭蕙芳し


 
       

 刀劍博物館     無有 相澤克典
白刃幾多陳一堂
 白刃 幾多 一堂に陳なる
照眸皓皓放幽光 眸を照らして皓々 幽光を放つ
刀身紋様各窮美 刀身の紋様 各おの美を窮む
工匠詩心超俗長 工匠の詩心 俗を超へて長し 

 
                
 訪刀劍博物館觀鐔次韻李白望廬山瀑布
              曉風 秋葉曉子
鐔刻廬山生紫煙
 鐔は刻す 廬山の紫煙を生じ
悠悠李白仰銀川 悠々として李白銀川を仰ぐを
飛流急勢入刀勢 飛流の急勢 刀勢に入り
畫裏詩情通九天 画裏の詩情 九天に通ず  

 
   
 日本刀        青木智江 
幾百研磨魂入刀
 幾百研磨して魂刀に入る
塵埃自散鋭鋒高 塵埃自から散じて鋭鋒高し
靈光一閃輔人格 霊光一閃 人格を輔け
不抜不剪眞劍豪 抜かず剪らず 真の剣豪

 
   
 刀劍博物館      蹊山 薄井 隆
古今名劍一堂陳
 古今の名剣 一堂に陳なる
皎皎光芒如白銀 皎々たる光芒 白銀の如し
細浪成紋添雅趣 細浪紋を成して 雅趣を添ふ
誰思砂鐵變刀身 誰か思はん 砂鉄 刀身に変ずるを

 
   
 刀劍博物館觀長光有感    
              河野幸男
鍛冶研磨幾萬回
 鍛冶 研磨 幾万回
玉虹三尺絶塵埃 玉虹 三尺 塵埃を絶つ
寒光凝眼刃文燁 寒光 眼を凝らす 刃文の燁き
技巧傳今刀匠才 技巧 今に伝ふ 刀匠の才

 
   
                
 刀劍博物館觀刀懷森蘭丸  
             河野幸男 
賊軍殺氣迫逾闌
 賊軍の殺気 迫りて逾いよ闌なり
欲護君王心不安 君王を護らんと欲して心安からず
玉骨遂摧刀亦盡 玉骨遂に摧け 刀も亦た尽き 
獻身棄命捧忠肝 身を献じ命を棄てて忠肝を捧ぐ

 
       
 刀劍博物館賞日本刀  櫻井宏克
名工鍛錬欲封魂
 名工の鍛錬 魂を封ぜんと欲す
波自成紋高下奔 波は自ら紋を成し 高下して奔(はし)る
安易勿汚千載譽 安易に汚す勿れ 千載の誉
長船威德不要言 長船の威徳 言を要せず 

 
      
 備前長船長光刀    蕗山 清水義孝
孤高逸品燿如綃
 孤高の逸品 燿き綃(きぬ)の如し
波穩成紋映影妖 波は穏かに紋を成し 影を映じて妖たり
今古東西人欲處 今古東西 人の欲する処
威嚴秘内自無驕 威厳 内に秘めて 自ら驕ること無し

 
                  
 刀劍博物館      長島ツタエ
皎皎冷光幽室充
 皎々たる冷光 幽室に充つ
刀身剛且美形窮 刀身剛にして且つ美形窮まる
不知名劍誰人佩 知らず 名剣誰人か佩するを
悠久時流留士風 悠久に時流るるも士風を留めん

 
      
 刀劍博物館鑑賞日本刀 
             濱村明弘
刀身三尺發光芒
 刀身三尺 光芒を発す
聞道將軍恒着裝 聞道(きくならく)将軍恒に着装すると
滿目旌旗空一夢 満目の旌旗 空しく一夢
今惟架上刃如霜 今は惟 架上 刃霜の如

 
   
 尋刀劍博物館     荘石 森崎直武 
刀工鍛錬亙多年
 刀工の鍛錬 多年に亙るも
武器用無工藝傳 武器は用無くして 工芸として伝ふ
長短數多妖艶眺 長短数多 妖艶なるを眺むれば
無心境地靜如禪 無心の境地 静かなること禅の如し

 
 
 訪刀劍博物館      芳野禎文   
刀劍館開經五旬
 刀剣の館(やかた)開きて経ること五旬
品評展示啓蒙新 品評 展示 啓蒙新たなり
鍛鋼工匠入魂作 鋼を鍛える工匠入魂の作
銘寳妖姿猶魅人 銘宝の妖姿猶人を魅す

 
         『北斎美術館』
 
刀剣博物館から東に向かい、十五分程歩くと、幾何学的な外観の北斎美術館がある。公園に囲まれ、訪れる人が気軽に立ち寄ることのできる造りとなっていて、四方から入ることのできる美術館だ。入場料は六十五歳以上は特別展込みで六百円。
北斎は隅田で生まれ、生涯の多くをここ、墨田区内で過ごしたそうである。この美術館では、北斎の作品や門人の作品を紹介し、隅田との関わりなどを分かり易く紹介しており、また季節ごとにテーマを変えて紹介する特別展覧も開催している。
私たちが訪れた時は、常設展以外に特別展示「隅田川両岸景色図巻と北斎漫画」を見ることができた。隅田川両岸景色図巻は肉筆画で、落語中興の祖と知られる烏亭焉馬の依頼で描いた、幅約二十八センチメートル、全長は北斎の作としては最長とされる七百十六センチメートルあり、その複製画がガラスケースの中に展示されていた。
この絵は百年以上行方知れずとなり、「幻の作品」と見なされていたが、二〇〇八年にロンドンで競売にかけられ、墨田区がこれを購入したのだそうだ。
漸く日本に里帰りしたこの絵は、浅草の柳橋・両国橋の近くから吉原遊郭に向かって隅田川を遡る両岸の景色を描き、吉原遊郭で遊び耽る人々の様子が描かれており、その表現方法は洋風の陰影法を交えた技法で、淡い日本絵具で着色して描かれている。当時の隅田川河畔の様子が手に取るように解かるものであった。
もう一つの特別展示は北斎漫画十五巻である。これは、来館者自身が手に取って見ることができるもので、総図数は約三九〇〇、人間や自然、神仏妖怪などあらゆるものが描かれており、「絵の百科事典」と呼ぶにふさわしい内容であった。各地の門人や私淑する者の指南書として描かれ、版行されたと考えられており、庶民から武士まで広い層に好評で、江戸時代のベストセラーとなったそうである。「漫画」とは、「事物をとりとめもなく気の向くまま漫ろに描いた画」と北斎自身が述べているように、現代の作家が描いたのと見まごう程、生き生きと描かれていた。
十九世紀後半に入ったころ、ヨーロッパでは日本から届いた陶器の緩衝材として北斎の絵の下書きが使われており、これを手に取った人物が、北斎漫画があまりにもエキゾチックで衝撃的なことを知人などに吹聴、それが多くの芸術家に知れ渡り、高い評価を得て、モネ、セザンヌ、ゴッホなどの画家にジャポニズムとして大きな影響を与えたのだとか。多くの北斎の版画や絵画は今もヨーロッパやアメリカなど海外の美術館に所蔵されている。

        
 北齋漫畫       北斎漫画    翔堂 鷲野正明
破顔一笑冶遊時
  破顔一笑 冶遊の時
涕涙紛紛八字眉  涕涙紛々 八字の眉
倒立雄飛聲忽響  倒立 雄飛 声忽ち響き
畫中躍動庶民姿  画中に躍動す 庶民の姿

 
    
 北齋漫畫          青木智江  
許多人物不知疲
 許多の人物疲れを知らず
或坐或奔還擧卮 或は坐し或は奔り還た卮を挙ぐ
魅了如生都躍動 魅了す 生けるが如く都て躍動す
翔天筆勢畫魂遺 天に翔ける筆勢 画魂遺る

 
   
 北齋美術館觀北斎畫    暁風 秋葉曉子
紙中萬物瞬時収
 紙中に万物 瞬時に収む
昼夜不分追最優 昼夜分たず 最も優なるを追ふ
獨自畫風人尽仰 独自の画風 人尽(ことごと)く仰ぐ
東西今古感名流 東西今古 名流を感ぜしむ

 
                
 北齋美術館        蹊山 薄井 隆     
大瀛激浪欲呑航
 大瀛の激浪 航を呑まんと欲し
富嶽如燃映曉光 富岳燃えるが如く暁光に映ず
四壁丹靑神授業 四壁の丹青 神授の業
十分眼福世塵忘 十分の眼福 世塵を忘る

 
                
 北齋美術館         長島ツタエ
波間富嶽遠方望
 波間 富岳 遠方に望む
又鑑遊人揃引裳 又鑑る 遊人揃ひて裳を引くを
名畫生涯三萬點 名画生涯三万点
異邦巨匠學之昌 異邦の巨匠 之を学ぶこと昌んなり

 
   
 訪墨田北齋美術館    荘石 森崎直武 
浮世繪觀衆目驚
 浮世絵観て 衆目驚く
筆端細密又縱橫 筆端細密 又縦横
畫風豐富正王道 画風豊富にして 正に王道
神技探求萬感生 神技の探求 万感生ず

 
      『勝海舟生誕の地』
  
 
    
 江城懷古          河野幸男       
笑談相對内含危
 笑談 相ひ対し 内に危を含む
無血開城天下奇 無血開城 天下の奇
山水庶民全共活 山水庶民 全て共に活き
如今平穩繼新繼 如今の平穏 維を新たにするを継ぐ

 
   
 尋勝海舟生誕地有懷    荘石 森崎直武
幕吏東西千里翔
 幕吏 東西 千里翔り
戊辰戰績了悲傷 戊辰の戦績 悲傷に了(おわん)ぬ
開城詮議無流血 開城詮議 血を流す無し
生誕地今空已荒 誕生の地は今 空しく已に荒る

 
               
 勝小吉            八嶋渓風   
劍俠聲名因育麟
 剣侠の声名 麟を育つるに因るも
幕臣麾下守淸貧 幕臣麾下 清貧を守る
自稱鳶似生鷹矣 自ら称す 鳶の鷹を生むに似たるかと
後日三舟第一人 後日 三舟第一人

 
        『吉良邸跡』
      

北斎美術館から南西方向へ、JRを越えて歩き、両国公園の中、勝海舟誕生の地を通り抜け、両国小学校の少し西側、ようやく、高家の格式を表す黒塗りの門と「なまこ壁」で囲まれた「吉良邸跡」に到着。門に入ると先の壁まで二十歩程、坪数約二十九坪と、とても狭い敷地だが、正面に吉良上野介義央座像が据えられ、「吉良公御首級(みしるし)洗い井戸」がその隣にあって、閑に来訪者を迎えている。
実際の屋敷はとても広大で、東西約一三二メートル南北約六二メートル、建坪は三八八坪あったそうだ。吉良上野介がこの屋敷を拝領したのが元禄十四年九月三日、義士の討ち入りがあって没収されたのが元禄十六年二月四日と一年半に満たない短期間であったが、現在に至るまで毎年十二月十四日の討ち入りの日には、赤穂義士四十七士と吉良二十士の両家の供養を行う『義士祭』が両国連合町会主催で行われ、賑わいを見せているそうだ。
古い井戸の横に佇むと、吉良上野介の無念さを感じるとともに、赤穂義士たちの勝どきの声が聞こえるようであった。

   
  吉良邸首洗井戸     青木智江    
白壁繞庭哀怨盈
 白壁庭を繞りて哀怨盈つ 
樹陰古井綠苔淸 樹陰の古井 緑苔清らかなり
深淵水底誰人泣 深淵の水底 誰人か泣く
傾耳還聞吶喊聲 耳を傾くれば還(また)聞く
            吶喊(とつかん)の声
※吶喊=ときの声をあげる

 
   
 吉良邸跡          蹊山 薄井 隆   
白壁圍庭旗幟飄
 白壁庭を圍みて 旗幟飄り
石碑相竝篆煙漂 石碑相ひ並びて 篆煙漂ふ
蒼苔古井纔留跡 蒼苔の古井 纔に跡を留め
遙想凱歌明朗朝 遥かに想ふ凱歌 明朗の朝

 
                
 訪吉良邸跡         河野幸男
歳暮皚皚雪未休
 歳暮 皚々 雪未だ休まず
佞人討伐笛聲流 佞人 討伐して笛声流る
臥薪嘗胆幾辛苦 臥薪嘗胆 幾辛苦
方得本懷君主仇 方に得たり 本懐 君主の仇

 
   
  吉良邸跡        仲野 滋              
榮華烏有古松傍
 栄華烏有 古松の傍
無主黒門守一疆 主無き黒門 一疆を守る
氣帶幽憤風尚冷 気は幽憤を帯びて風は尚ほ冷ややかに
對碑久立淚成行 碑に対して久しく立てば涙行を成す

 
 
  尋吉良邸跡    荘石 森崎直武 
漫過黑門塵外場
 漫に黒門を過ぐれば 塵外の場
紫煙籠墓惹哀傷 紫煙は墓を籠め哀傷を惹く
吉良坐像獨閑見 吉良の坐像 独り閑に見て
冥福偏祈欲夕陽 冥福偏に祈れば夕陽ならんと欲す

 
 
               
  憶大石于吉良別邸跡   八嶋渓風
吉良忽作赤城仇
 吉良忽ち作(な)る赤城の仇
大石意堅天下猷 大石の意(こころ)は堅し 天下の
            猷(はかりごと) 
遊里豪遊豪傑証 遊里の豪遊 豪傑の証(あかし)
風流無視却風流 風流無視して却って風流

 
   
  見吉良家家臣二十士碑   芳野禎文
集來詩友舊都巡
 集い来たる詩友 旧都を巡る
邸跡石碑銘記新 邸跡の石碑銘記新たなり  
浪士得譽成義士 浪士誉れを得て義士と成るも
無名何故吉良臣 無名は何故か吉良の臣

 
        『両国橋』

中央区と隅田区の間に掛かる全長約百六十五メートル。国道十四号が通っている。一六八六年(貞享三年)に国境が変更されるまでは武蔵国と下総国との国境にあったため、両国橋と呼ばれるようになった。
両国橋が出来た理由は、明暦の大火の際、逃げ遅れた多くの江戸市民が火勢に飲み込まれ十万人以上の死者がでたのがきっかけだそうだ。それまでは、防備の面から、隅田川への架橋は千住大橋のみと定めていた幕府だが、漸くここにも架ける決意をしたそうである。
現在の両国橋は、二〇〇八年(平成二十年)三月二十八日、言問橋と共に東京都選定歴史的建造物に選定された。
国道は、多くの車が行きかい、賑やかだが、隅田川に目を転ずると、ゆりかもめが声をあげて飛び交い、小舟が二艘小さな煙を吐いて通り過ぎていく、なんとも長閑に風も爽やかであった。

   
  兩國橋         翔堂 鷲野正明  
墨水架橋姿各殊
 墨水橋を架して姿各おの殊なり
夜間燈色使人娯 夜間の灯色人をして娯しましむ
如何兩國質而素 如何ぞ両国 質にして素
好仰四時明月珠 好し 四時明月の珠を仰がん 

 
    
 兩国橋          青木智江  
白雲倶在午風輕
 白雲倶に在りて午風軽し
獨倚欄干心愈淸 独り欄干に倚れば心愈いよ清し
眼下滔滔流墨水 眼下 滔滔 墨水流れ
二州來往一鷗鳴 二州 来往して一鷗鳴く

 
   
 兩國橋東畔      蹊山 薄井 隆     
墨水滔滔浮碧漣
 墨水滔々 碧漣を浮かべ
望西樓閣競摩天 西を望めば 楼閣競ひて天を摩す
江東已是非房總 江東已に是れ 房総に非ざるに
留得橋名三百年 留め得たり橋名 三百年

 
   

 兩國橋          岡安千尋
墨水湯湯度兩陂
 墨水湯々として両陂を度る
去來遊艇白波移 去来す遊艇 白波移る
欄干獨倚思今古 欄干独り倚りて 今古を思ふ
送別相逢全是悲 送別相逢(そうおう)全て是れ悲し

 
              
 兩國橋          蕗山 清水義孝
江都八百八街東
 江都 八百八街の東
瑤閣瓊樓斜日紅 瑤閣瓊楼 斜日紅なり
橋畔停筇望墨水
 橋畔筇を停めて 墨水を望めば
群鷗恰恰一涼風 群鷗 恰々 一涼の風

 
               
 過兩國橋        蕗山 清水義孝 
植杖倚欄初夏風
 杖を植て欄に倚れば 初夏の風
墨流汎汎二州穹 墨流汎々二州の穹(そら)
孤鷗飛到掠吾帽 孤鷗飛び到りて吾が帽を掠め
直向灣頭斜日中 直ちに湾頭に向ふ 斜日の中
 
 
 立兩国橋         荘石 森崎直武
隅田川上結西東
 隅田川上 西東に結び
行客往來榮且豐 行客往来して栄え且つ豊かなり
夏夜求涼民集處 夏夜涼を求めて 民集まる処         夕陽返照畫橋紅 夕陽の返照 画橋紅なり

 
        『回向院』
  
回向院は明暦三年に開かれた浄土宗のお寺である。明暦の大火で十万人以上の人命が奪われた。この災害によって亡くなられた多くは、身元や身寄りの分からない人々で、当時の将軍家綱は、このような無縁の人々を手厚く葬るようにと、ここ隅田川の東岸に「万人塚」という墳墓を築かせ、遵誉上人に命じて冥福に祈りをささげる大法要を執り行った。この時の御堂が回向院の始まりだそうである。
また、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などは江戸市民に尊崇され、巡礼の札所ともなり、江戸後期になると、勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの七十六年間、回向院相撲の時代を相撲の歴史に刻んだのである。
塩地蔵、力塚、水子塚、馬頭観世音菩薩像、鼠小僧次郎吉の墓、関東大震災供養塔、など多くの仏様、墳墓、塚が点在しており、宗派を問わず、人、動物を問わず、生あるものすべてを供養するという精神に充ちたお寺であった。

      
   
 回向院          渓燕 市川恵美子
山門左右阿吽儀
 山門左右に阿吽の儀
沿道竹林日影滋 道に沿って竹林 日影滋(しげ)し
勸進發祥相撲地 勧進発祥 相撲の地
戯呼力士是爲誰 戯れに力士を呼ぶ 是れ誰と為す

 
                
 回向院鼠小僧墓     蹊山 薄井 隆    
綠風颯颯竹林陲
 緑風颯々 竹林の陲
繁葉影濃搖石碑 繁葉影濃やかに 石碑に搖れる
驚見賽人頻削墓 驚き見る 賽人頻りに墓を削るを
巷間聲望未猶衰 巷間声望 未だ猶ほ衰へず

 
                    
 回向院          河野幸男
風度梵宮塵俗忘
 風は梵宮を度り 塵俗忘る
粛然境内野花香 粛然たる境内 野花香し
傳聞大火慰霊地 伝聞す大火 慰霊の地
供養維今念佛堂 供養今に維ぐ 念仏堂

 
 
 過鼠小僧墓        蕗山 清水義孝
低頭黙禱墓標前
 頭を低れて黙祷す 墓標の前
僧院雨晴生暮煙 僧院 雨晴れて 暮煙を生ず
佛法元來無問罪 仏法 元来 罪を問ふ無し
今人誰識靜茲眠 今人 誰か識る 静かに茲に眠るを

 
               
 力士塚          蕗山 清水義孝
回向院頭啼老鶯
 回向院頭 老鶯啼き
東都初夏竹風輕 東都の初夏 竹風軽し
興行相撲顯彰塚 興行相撲 顕彰の塚
整調呼稱力士名
 調を整へて呼称す 力士の名

 
 
 過回向院鼠小僧墓    濱村明弘
香臺依舊在街衢
 香台 旧に依りて 街衢に在り
衆庶訪塋思刑徒 衆庶 塋を訪ねて 刑徒を思ふ
竊取金錢與貧者 金銭を窃取しては 貧者に与ふ
盜人大罪有如無 盗人の大罪 有りて無きが如し

 
   
 参拜回向院       荘石 森崎直武
赤門乃入漾餘香
 赤門乃ち入れば 余香漾ふ
來客祈禱涙數行 来客祈祷して 涙数行
災害墓碑何立衆 災害の墓碑 何ぞ立つこと衆し
追思往事惹愁長 往事を追思すれば 愁いを惹くこと長し

 
                
 回向院          八嶋渓風   
大道人多江水傍
 大道人多し 江水の傍
無緣衆庶靜回廊 無縁の衆庶静かに廊を回る
何嫌義賊眠院裏 何ぞ嫌わん 義賊の院裏に眠るを
裊裊篆煙風竹香 裊裊たる篆煙 風竹香る

 
 
 参加春季吟行會     荘石 森崎直武
兩國蒼天朋友迎
両国蒼天 朋友迎ふ
高樓林立踏陰行 高楼林立 陰を踏んで行く
詩題多少吟心好 詩題多少 吟心好し
意氣軒昂句乍成 意気軒昂 句乍ち成る

 

よく晴れた一日、無事吟行会も終わり、今日歩いた歩数一万五千歩をかるく超えていた。よく歩いたものである。次回秋の吟行も、隅田界隈だとか。まだまだこの界隈の歴史を探る旅は尽きないようである。
 
                                      文:青木智江
  

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