「人間私宝の生き方」への箴言集

『酔古堂剣掃』を読む(一)



                  清水蕗山

 
 
ある時、漢詩の勉強会に資料として添付された一枚のペーパーに心を揺すぶられ、Y先生にその出典を尋ねたところ、PHP文庫の現代活学講話選集五、安岡正篤著『酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)』と教えてくれた。以来座右の書としていつもベッドの脇においてある。

『酔古堂剣掃』という書物は、明末の教養人・陸紹珩(りくしょうこう)が長年愛読した古典の中から会心の名言・嘉句を収録した読書録であり。全体を通して自然、田園、山水などを楽しみ、世の中の名利など全く眼中にない悠々たる人間の生き方を見事に活写した風雅の書である。日本では明治の人は良く読んだそうだが、昭和になってほとんど読む人を見かけなくなったと著者は嘆く。そこで人間の心身を本当に養う。心の食べ物・栄養として、また本当の意味の教養として広く知ってもらうために講演を重ねた。その講演録が前出の書である。

今後、一部を抜粋して紹介してみようと思う。

1、淡宕(たんとう)の心境

『人、一字識らずして而も詩意多く、一偈(いちげ)せずして而も禅意多く、一勺濡らさずして而も酒意多く、一石暁(さと)らずして而も意多きあり。淡宕の故なり。』

人間は、文字の教養がなくても、況や学校なんか出なくとも人柄そのものが詩的である。参禅なんてやらなくとも禅客よりもずっと超越した妙境にある人もいる。酒を一滴も飲まないで、飲む人よりも飲酒の味・趣を豊かに持っている人もいる。一つの石の描きかたも知らないでも人間そのものに画意、絵心が豊かにある人もいる。どうしてかというと「淡宕の故なり」と締めている。「淡」とは「淡い」である。淡いとは味がない、薄味などと言っては「君子の交わりは淡・水の如し」などは、水のように味がないとなってしまう。実は甘いとも渋いとも言うに言えない妙味、これを「淡」という。「宕」は堂々たる大石がでんとして構えているということ。老人の茶飲み友達などは実は何とも言えぬ味のある友達ということで、至極の境地に至っている。その「淡い」であり、しかしそこに何とも言えないおおらかさ、強さ、逞しさを持っておるというのが「宕」、だから「淡宕」という言葉は実に味のあるいい言葉である。
 
  
      「人間私宝の生き方」への箴言集

  『酔古堂剣掃』を読む(二)



                  清水蕗山
 
前号より、明代の教養人陸紹?(りくしょうこう)が長年愛読した古典の中から会心の名言・嘉句を収録した「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」についての安岡正篤先生の講演録から抜粋して紹介している。

 …「遊」の哲学…

「遊学」という言葉がある。遊ぶ学という。普通は遊学というと、どこか遠い所へ出かけて勉強するくらいにしか考えないが、本当の遊学というのは大変奥深く妙味のある言葉である。

「遊」とは漢民族の歴史から生まれた言葉である。漢民族は黄河の流域から興り、定着して農耕生活を営むようになった。
そこで、最初に困ったのが、黄河の氾濫である。
つまり黄河の水処理に非常に苦しんだ。ほとんど黄河の治水記録といっていい。
ある所に治水工事をやると、水はとんでもない所へ転じて、思わざる所に大変な災害を引き起こす。長い間、治水に苦しんで到達した結論は、結局「水に抵抗しない」ということであった。
水に抵抗するとその反動がどこへ行くやらわからない。水を無抵抗にする。
すなわち水を自由に遊ばせる。そこで水をゆっくりと、無抵抗の状態で自ずからに行かしめ、これを「自適」と言った。
適という字は行くという字。思うままに、つまり無抵抗に行く。抵抗がないから自然に落ちついて、ゆったりと自ずからにして行く。これが「優遊自適」であります。
そこで「ゆう(游、遊)」という字はサンズイでもシンニュウでもいい。サンズイならば水を表したものだし、シンニュウはその水路を表したもので、黄河の治水工事の結論は、水をして悠々自適せしめるにある。
それは人間でも同じことである。抵抗して戦っていくのは、これは苦しい。つまり、自ずからにして思うがままに行けるということは、黄河ならぬ人間にも非常に楽しいことで、それが極致であります。

そこで学問もそういうやり方を遊学という。 
「学記」の中に「四焉(しえん)」という非常にいい格言がある。学問というのは、「焉(これ)を修め、焉(これ)を蔵し、焉(これ)に息し、焉(これ)に遊ぶ」
つまり学問というものは、これを修(整理)して、それを体の中に蔵(入)して、それを息(呼吸)と同じようにする。そうすると、ゆったりと無理がない。抵抗なしに「焉に遊ぶ」ことになる。これが優遊自適である。
それで初めて古人が遊説とか遊学、遊の字をよく使うことがわかる
 
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    『酔古堂剣掃』を読む(三)



                  清水蕗山
 

山居・幽居の楽しみ

『門内径有り。径曲れるを欲す。径転じて屏有り。屏小なるを欲す。屏進みて堦有り。堦平らかなるを欲す。堦畔花有り。花鮮なるを欲す。花外牆有り。牆低きを欲す。牆内松有り。松古きを欲す。松底石有り。石怪なるを欲す。石前亭有り。亭朴なるを欲す。亭後竹有り。竹疎なるを欲す。竹尽きて室有り。室幽なるを欲す。・・・・・
客至れば酒有り。酒は却けざるを欲す。酒行りて酔う有り。酔えば帰らざるを欲す。』


「門を入ると小径がある。『径曲がれるを欲す』る。真っ直ぐではおもしろくない。曲がっていなければいかん。
径が転ずると屏がある。その屏も高い屏だとおもしろくない。虚しく人を遮るから『屏小なるを欲す』のである。小さい柴折戸かなんか、とにかく小なるが良い。
そこから進んでいくと『堦有り』階段がある。『堦平らかなるを欲す』、むやみに高かったり、危なっかしかったのではいかん。
その階段の畔に花がある。そこに雑佛物が置いてあるのではいかん。花がある。その花も鮮やかなのがいい。
花の近所には低い牆があって、牆の中に松がある。『松古きを欲す』、松はやっぱり古松がいい。
松の下に石がある。『石怪なるを欲す』、石もこういう場合の怪は非常に趣きがある。尋常でない、いわゆる怪石です。
石の前には亭がある。それも、極めて素朴自然で、手が込んでいない。贅沢なものでない。自然の素朴な休み場所、そういう四阿(あずまや)が欲しい。
その亭の後ろに竹がある。それも密着してあってはおもしろくない。『竹疎なるを欲す』、これを疎竹という。何本かバラバラあって勘定していくと、ちょうど数が尽きた所に部屋がある。『室幽なるを欲す』、部屋はあまり明るいと良くない。木蔭、樹蔭の亭であるから、いくらか暗いというては悪いから幽である。幽は暗い、静か、奥深い、いろいろの意味がある。・・・・・
『客至れば酒有り』これはありがたいことで『酒は却(しりぞけ)ざるを欲す』である。いや私は飲めませんなんてやつは話にならん。『酒行(めぐり)て酔う有り』そのうち酒がめぐって醉わなくちゃいかん。『酔えば帰らざるを欲す』というのは、これはちょっと深刻だ。よほど良い友人でなければそうはいかん。たいていはもう早く帰らんかなという。これも実にいい描写です。
読んでいると嬉しくなる。『酔えば帰らざるを欲す』なんていう客になれば、たいしたものだ。もういいかげんに帰らんか、なんて言いながら飲んでいるなら、飮まん方がいい。
何気なく読むと豪奢だが、よくよく読むと非常に素朴、自然、簡素である。」

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都会でせわしなく日常を過ごしていると、ちょっとしたところに心を豊かにしてくれる景色があることに気がつかない。
思い起こせば、筆者が田舎で子供のころ見た光景そのままだ。路も雨がふればぬかるみ、手入れもしない庭らしきもの、隣のオヤジさんがひょこり来れば、酒を出し、世間話をして、帰るまで付き合う。電気もなく、本もなく不便で貧乏な生活だったが、心は豐だったと思う。知らず、山居・幽居の楽しみに接していたのかもしれない。
 
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  『酔古堂剣掃』を読む(四)



                  清水蕗山
 
野人・別天地の楽しみ(その一)

『枕を邱中に高くし、名を世外に逃れ、耕嫁して以て王悦を輪(いた)し采樵して以て親の顔を奉じ、新穀既に升(みの)り、田家大いに洽(うるお)い、肥?(ひちょ)煮て以て神に享し、枯魚燔(や)きて而して友を招(よ)び、蓑笠戸に在り、桔槹(きっこう)空しく懸る。濁醪(だくろう)相命じ、缶(ふ)撃ちて長歌す。野人の楽しみ足れり。』
 
「枕を邱中に高くし」とは官途に就かず、民間にあって枕を高くして眠ること。名を世の外に隠して、田畑を耕して租税を納める。草を採り木を伐り、「以て親の顔を奉じ」、親を喜ばせる。「新穀既に升り、田家大いに洽い」、太った子羊を煮て神に捧げ、自分は干物を焼いて友を招く。蓑笠は戸に懸けてあり、「桔槹」ははねつるべのこと、それが空しく懸っている。「濁醪相命じ」、どぶろくを取り寄せて、缶(酒を入れる素焼きの土器)を撃って長歌する。「野人の楽しみ足れり」。読むだけでも気持ちがいい。田園の生活、山野の悠々として自在な生活が、よく短い文章の中に躍動しておる。

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野人を辞書で引いてみると、「庶民」「かざり気がなく真心のある人」「いなかもの、礼儀を知らない粗野な人」(新字源)とある。また、引用例に「野人無暦日(やじんれきじつなし)田舎に住んで、世間と無縁な人には、こよみの必要がない」とある。しかし、文章をみると、田舎者、粗野な人についての記述ではなく、教養人の擬似願望の要素を含んでいるように思える。隠棲の楽しみ、自然との関わりは現代人も常に求めている。

定年退職して、自在な田舎暮らしを夢見る人は今や多いと聞く、蓑笠は戸に懸けてなくとも干物を焼いて友を招くことはできそうだ。
 
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  『酔古堂剣掃』を読む(五)



                  清水蕗山
 

野人・別天地の楽しみ(その二)

『山居城市に勝る、蓋し八德あり。苛礼を責めず。生客を見ず。酒肉を混ぜず。田産を競わず。炎凉を聞かず。曲直を閙(さわ)がず。文逋(ぶんぽ)を徴せず。士籍を談ぜず。』

『山野の住まいというものは城市に勝る。近いに勝る。「蓋し八德あり」、八つの德がある。「苛礼を責めず」うるさい礼儀作法やしきたりを責められることがない。都会生活は、やれ葬式だ、やれ結婚式だ、なんだかんだといろいろ礼儀がある。これに「うるさい」という意味の字をつけて「苛礼」という。「生客を見ず」の生は、まだ修練のできておらん、枯れていないこと。人間世界の練達、修行のできていない生の客、そういう客は見ない。「酒肉を混ぜず」酒だの肉だのとゴタゴタしたものを混えない。まことに簡素である。「田産を競わず」いくら取れた、いくら儲かったと競うことがない。「炎凉を聞かず」暑いの寒いのということを聞かない。つまり、あいつは成功したとか、失敗したなんていうことを聞かない。「曲直を閙(さわ)がず」とはあいつは曲っとるとか、真っ直ぐだとか騒がない。
「文逋(ぶんぽ)を徴せず」逋は負うで、文の催促、何日までの書いてもらいたい、何日にあれこれしてもらいたいなどの話が持ち込まれない。「士籍を談ぜず」人間の籍、どこに属するとか、そんな話はない一つひとつごもっともである。山居、隠遁的生活こそ自由の生活というものであるに違いない。』

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隠遁生活に憧れた時もあった。しかし現代の高齢者は、忙しい。いや忙しくしているのが精神健康に良いなどと言われている。高齢者は「今日用(きょうよう)」と「今日行く(きょういく)」(今日用があること、今日行く所がある)が大事である」などと吹聴する人もいる。家にぼーっとしているよりはよっぽど健康的であるという捉え方である。
たまには、家でゆったりとして、茶を啜り、本を読み、昼寝をし、書画の構想を練り、時に妻と酒の肴を調理して楽しむのも現代の擬似隠遁生活といえるのではなかろうか。
前出の「八德」を実感することは筆者には不可能に近い。          

 
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  『酔古堂剣掃』を読む(六)



                  清水蕗山
 

野人・別天地の楽しみ(その三

『間居の趣、快活、五あり。与に交接せず、拝送の礼を免るるは一なり。終日書を観、琴を鼓すべきは二なり。睡起、意に随い、拘碍(こうげ)ある無きは三なり。炎涼囂雜(ごうざつ)を聞かざるは四なり。能く子に耕読を課するは五なり。』

間居にはまことに快い活き活きとした快活が五つある。「与に交接せず、拝送の礼を免るるは一なり」、ともに交際せず、お辞儀をして送るとか迎える礼儀がない。往来がないから出迎え、見送る煩わしさがない。終日書を観たり、琴を奏でて「睡起、意に随い」、眠ければ眠る。起きたければ起きる。意のままである。「拘碍(こうげ)」、何もそこに引っ掛かりがない、妨げがない、自由自在である。「炎涼囂雜(ごうざつ)を聞かざるは四なり」、暑いの寒いの、やかましいのゴタゴタするの、というようなことを聞かん。そして「能く子に耕読を課するは五なり」伜に農事の余暇に書を読ませる、耕読を課する。まことに愉快で、かつ活き活きしたことで、これが間居の趣というものだ。こういう生活は、まことに気持ちがいい。うらやましい。

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先日たまたま脚本家の倉本聡さんのインタビュウー番組を見る機会があった。北海道富良野に隠棲して四十年、ドラマ「北の国から」はあまりにも有名だ。
冬は零下三十度にもなる厳寒の片田舎に居住を決意した理由を聞かれ、「世の中があまりのスピードで便利になり、自分で考え、自分で行動することが難しくなった。世の煩雑さから逃れて、自由自在な生活を求めたかった」というような趣旨の話をされていた。
まさに四十年前から別天地の楽しみ、閑居の趣を実践している方のように思えた。