漢詩を作るのは独学でもできますか? 

長年詩を作っていますが、先生にまだダメとよく言われます。上達するコツは何ですか?
 
 
鷲 野
 
漢詩は簡単に作ることができ、作るほどに楽しく、やめることができなくなります。
ただ、自分勝手に作ると、だれにも理解してもらえません。自分の「おもい」が人に伝わらないことほど悲しいことはありません。共通の規則を守ってはじめて人に理解され、作るほどに御みのある詩ができます。
この寺子屋塾では、初心からわかるように、身近なことを題材にお話をして行きたいと思います。また、疑問点があればどしどしお寄せ下さい。

さて、漢詩作りに一番大切なことは、漢詩は外国語で作る詩、であることを改めて認識することです。わたしたちはいつも漢字を使っていますから、簡単に漢詩を作ることができます。が、日本語として使う漢字と、漢詩で使う漢字と、きちんと区別しないといけません。なぜなら、漢詩は、外国の詩、だからです。

初めて作詩した方が次のような一句を作りました。

  
杜中小径鳥頻鳴  杜中の小径 鳥頻りに鳴く

森の中の小径を歩いていると、鳥が頻りに鳴いている、という内容です。初心でこれだけできれば大したものです。

ところで、この句では大きな欠点があります。それは「杜」の使い方が間違っていることです。「杜」は、日本語では「もり」と読み、「森」と同じ意味で使いますが、「杜」を「もり」と読むのは、日本だけに通用する読み方です。日本人が考案した読み方で、これを「国訓」と言います。

「杜」は①山野に自生する果物の「やまなし」、②「ふさぐ」「とじる」、という意味で、「もり」の意味はありません。②の意味の熟語では、「管理がズサン」などという「杜撰」があります。
じつは「森」も、①樹木の多いさま、②おごそかなさま、③つらなり並ぶさまで、「もり」と読み、あの「もり」を連想するのはやはり「国訓」です。ちなみに「もり」は漢字では「林」で表します。
日本人が考案した漢字も漢詩では使えません。「畑」「畠」「笹」「峠」「辻」など、おなじみの字があります。漢和辞典では「国字」と記されています。要注意です。
「持つべきものは友達」とよく言いますが、漢詩作りでは、これに加えて「持つべきものは友達と漢和辞典」です。
上の句は

  
林中小径鳥頻鳴  林中の小径 鳥頻りに鳴く

とすればよいでしょう



 第3回で漢字には「四声」があると説明されていましたが、現代中国語の標準語の「四声」とは違うのですか?

 
   鷲 野  

現代中国語の習い始めに悩まされるのが「四声」ですね。
 高くて平らに発音する「第1声」
 低いところから上へ上がる「第2声」
 沈み込む「第3声」
 高いところから下へ下がる「第4声」

昔の中国語の教科書には、「第1声」は電話のベルの音の「リーン」の要領で、「第2声」は聞き返すときの「エー?」、「第3声」は感心するときに「なーるほど」、「第4声」はカラスの鳴き声「カー」、のように、と説明されていました。今は「リーン」と鳴る電話を見かけませんので、どう教えるのでしょうか。
古い分類の「四声」は「平声」「上声」「去声」「入声」ですが、これを現在の「四声」と対応して見ますと、

 古い音韻体系  現在の四声
    平声      第1声、第2声
    上声      第3声
    去声      第4声
    入声      第1声~第4声
となります。おおよそ対応しますので、現代中国語に堪能な人は、漢詩で言う「四声」がおおよそ類推できます。

ただし、入声は現代中国の標準語にはありませんから要注意です
入声は、日本語で音読みしたとき、「フ」「ツ」「ク」「チ」「キ」で終わるものです。例えば

  一  イツ、イチ  現代中国語では第1声
  学  ガク     現代中国語では第2声  
  石  セキ         同
  笛  テキ         同   
  雪  セツ     現代中国語では第3声  
  月  ゲツ     現代中国語では第4声  
  駅  エキ         同

入声の漢字が、現代中国語の第1声から第4声にそれぞればらけていることがわかります。ところで上の例で「フ」がありません。この「フ」は要注意で、漢字に旧仮名遣いでルビをふったときに出てきます。たとえば「蝶蝶」。古典の時間に「テフテフ」と書いてありました。これが入声の「フ」です。ほかに

急  キフ     現代中国語では 第2声
集  シフ         同  
答  タフ         同 などがあります。今は旧仮名遣いを使いませんから、これは難しいですね。しかし「フ」で終わる漢字はそれほど多くはありません。

  第8回で、現代中国の発音をローマ字表記していましたが、作詩は中国語ができないとだめですか? 中国語が出来ると有利ですか?  
   鷲 野 

作詩では、必ずしも中国語が話せる必要はありません。

江戸時代の有名な詩人、例えば頼山陽や梁川星巖は話せませんでした。明治時代、漢詩人としても知られる夏目漱石も森鴎外も中国語は話せませんでした。

詩を作っていると、漢字の四声やら韻が自然に脳にしみ込んでくるのです。最初は面倒でも辞書引くようにしてください。何度も引いているうちに自然に覚えてしまいます。

作詩で中国語を話せる必要はありませんが、しかし、発音できると便利です。平仄や韻を類推できますし、何よりも原詩を中国語で音読すると、書き下しで読むのとは違う、独特のリズムを味わうことができます。

 
七言絶句の第一句目を押韻しない詩もけっこうありますが、許されるのですか?

 
   鷲 野

唐の時代では第一句目を押韻しない詩が結構あります。白楽天の「別種東坡花兩絶」(東坡に種えし花に別る両絶)の其の二。

花林好住莫顦顇 花林 好(よろ)しく顦顇(しょうす
            い)すること莫かれ
春至但知依旧春 春至れば但だ知れ 旧春に依るを
楼上明年新太守 楼上 明年 新太守
不妨還是愛花人 妨げず 還(ま)た是れ花を愛する
           人なるを
 
「春」「人」は上平声・十一真ですが、「顦顇」の「顇」は仄●です。白楽天には第一句を押韻しなし、いわゆる「踏み落とし」の詩が見受けられます。それほどうるさくなかったのかもしれません。なお第二句には一字目と七字目に「春」があります。一見「冒韻」のようですが、第一字目は「冒韻」とは見なしません。
第一句の押韻は、だんだんと規則がうるさくなり、今日では必ず押韻するように指導します。ただし、第一句と第二句が対句になっている場合は押韻しなくても許されます。もちろん押韻してもかまいませんが。

次の杜甫の「絶句」は、前半二句、後半二句がそれぞれ対句になっています。
  
  兩箇黄鸝鳴翠柳  両箇の黄鸝 翠柳に鳴き
  一行白鷺上青天  一行の白鷺 青天に上る
  牕含西嶺千秋雪  牕(まど)には含む 西嶺千秋
               の雪   
  門泊東呉萬里船  門には泊す 東呉万里の船

「天」「船」は下平声・一先の韻です。第一目の「柳」は仄●で、押韻されていません。

対句とは、文法的に同じ働きをする語が同じ順番にそれぞれ対応している二つの句を言います。上の例では、「兩箇」と「一行」、「黄鸝」と「白鷺」の名詞、「鳴」と「上」の動詞、「翠柳」と「青天」の名詞がそれぞれ対応しています。数字や色も対応する凝った句です。後半の対句も見事です。

 11回で「韻書」に触れていましたが、「韻書」の歴史を教えてください。「広韻」とか「平水韻」というのも聞いたことがありますが、これは何ですか?  
    鷲 野

「韻書」とは、漢字を韻で分類した書物です。また、音韻に関する書のことも言います。韻書の初めは、五声によって漢字を配列したもので、魏の李登の「声類」十卷、これにならった晋の呂静の「韻集」五卷、とされています。がともに失われました。

ついで四声説によって夏侯詠の「四声韻略」などの諸書が出ました。その代表が隋の陸法言の「説韻」です。唐の時代では、孫愐が「説韻」によって「唐韻」を作り、宋の真宗のとき、陳彭年らが旧来の韻書を増訂して「広韻」を作りました。仁宗のときには丁度らが勅を奉じて「集韻」を作り、また別に礼部の科挙試験用に「礼部韻略」が利用されました。

ここまで韻は206韻に分けてありましたが、南宋の寧宗のころ金の韓道昭が「五音集韻」を作り、あらためて160韻にしました。淳祐年間(1241~1252)江北平水の劉淵が「礼部韻略」を増修し、同じ韻として用いている韻を合併して107韻としました。これが「平水韻」と言われるもので、のちに106韻にまとめられ、今日の作詩のさいの基準となっています。

それぞれの時代での実際の発音がどうであったのか、たいへん興味があります。

昔の中国ではローマ字は使っていませんから「韻」や発音をどう表記していたか、研究方法や研究の歴史はどうなのか、という興味深いことがらが、大島正二氏著『唐代の人は漢詩をどう詠んだか』(岩波書店)に分かりやすく書いてあります。

 
第12回で「七言絶句では韻を踏むのはたいてい平声○です」とありましたが、仄で押韻する詩はありますか?

 
   仄で押韻する詩、もちろんあります。

第一・第二・第四句を仄で押韻しますから、第三句の七字目は平○にします。柳宗元の「夏昼偶作」

   夏晝偶作   中唐 柳(りゅう)宗(そう)元(げん) 
 ○ ●●○●    
 南州溽暑醉如酒   南州の溽(じょく)暑(しょ) 酔(よ)ふて酒の如し
  ● ○○●●    
 隱几熟眠開北牖    几(き)に隠りて熟)眠し 北(ほく)牖(ゆう)を開(ひら)く
 ●●●●○○○    
 日午獨覺無餘聲    日午 独り覚(さ)めて 余(よ)声(せい)無(な)し
 ○ ●○○●    
 山童隔竹敲茶臼    山童 竹を隔(へだ)てて茶(さ)臼(きゅう)を敲(たた)く

(大意)
南の国の蒸し暑さは、二日酔いのように気持ちが悪い。そこで、北側の窓を開け放ち、肘掛(ひじか)けにもたれてぐっすり眠る。昼頃ひとり目覚めると、竹林の向こうで、童(わらべ)が茶の葉を臼(うす)でつく音が聞こえてくる。ほかには何の物音もしない。

                (韻字)酒・牖・臼(上声二五有)

 仄●で押韻しても、平仄の規則は守らないといけません。ただ、上の詩では第三句が、「●●●●○○○」となっていて「二四不同・二六対」になっていません。
 なお、初心のうちは、平○で押韻することをお薦めします。

⑦第三句目の「平起式」で、第三句は
  △●△○○●●(△は平でも仄でも、どちらでもよい)
 ですが、参考書によっては、
  △●○○●○● も可である、(△は平でも仄でも、どちらでもよい)とするものもありますが、これはどういうことでしょうか?

 
唐代以後の通念では、下の三字の「○●●」は「●○●」と同じ価値をもち、音調の諧和を失わない、とされていたようです。
前の柳宗元の詩でもそうですが、第三句は押韻しませんので、ある程度融通がきくようです。いわゆる「二四不同・二六対」の規則に合わない破格が結構あります。

第三句の「△●○○●○●」の例として

  涼州詞              盛唐 王之渙
 黄河遠上白雲間    黄河 遠く上(のぼ)る 白雲(はくうん)の間(かん)
 一片孤城萬仭山   一片の孤城(こじょう) 万仭(ばんじん)の山(やま
  羌笛何須怨楊柳    羌(きょう)笛(てき)何ぞ須(もち)ゐん楊柳を怨(うら)むを
 春光不度玉門關    春光 度(わた)らず 玉門関(ぎょくもんかん)
  (大意)
黄河を遠く白雲のわくあたりまでさかのぼると、町が一つそそり立つ山のなかに孤立している。ここでは、羌族(きょうぞく)が笛を吹いて悲しい調べの「折(せつ)楊(よう)柳(りゅう)」を演奏しても、少しも悲しくならない。なぜなら、春の光が玉門関(ぎょくもんかん)をわたってここまで来ることはないのだから。
               (韻字)間、山、關(上平声一五刪)
 
杜牧の「江南春」は、第三句の下の三字がすべて仄です。

  江南春                晩唐 杜牧
 千里鶯啼緑映紅    千里 鴬啼(な)いて 緑 紅(くれない)に映ず
 水村山郭酒旗風    水村 山郭(かく) 酒旗(き)の風(かぜ)
 南朝四百八十寺    南朝 四(し)百八(はち)十(しん)寺(じ)
 南朝四百八十寺    多少の楼台 煙(えん)雨(う)の中(うち)
  (大意)
見渡すかぎり広々とつらなる平野、あちこちから鶯(うぐいす)の鳴き声が聞こえ、木々の緑と花の紅(くれない)とが照り映える。そよ吹く風に、水辺の村も山沿い村ものどかで、時に酒屋の旗がなびく。一方、雨の降る日はといえば、古都金(きん)陵(りょう)では、南朝以来のたくさんの寺院の楼台がモヤのなかにかすむ。
               (韻字)紅、風、中(上平声一東)
 
第三句は「○○●●●●●」となります。「朝」の平○と「二六対」となるように「十」の入声●の「ジフ」を平○の「シン」に読み替えるのが一般的です。が、破格の詩は多いので脚韻以外は読み替える必要はない、という説があります(小川環樹「『南朝四百八十寺』の読み方ー音韻同化assimilationの一例」)。
仄●が三つ続く「下三仄」はそれほど、避けねばならない、とは考えられていなかったようです。
ただ、私たちはきちんと規則を守った方がよいでしょう。発想を変えれば規則どおりに作ることが可能です。
発想を変える練習をするほうが作詩力は上がります。


 詩は「第四句から作る」と言う参考書もありますが、そうなのですか?
 
  そんなことはありません。
どこから作ってもかまいません。ある参考書では「第三句から作れ」、あるいは「第三句・四句から作れ」ともあります。参考書の著者は経験からそう言っているのですが、人はそれぞれですから、詩の規則を守ればどの句から作ってもいいのです。いろいろな作り方をためして、自分流の作り方を見いだせばよいと思います。

ちなみに私(鷲野)は、第一句目から順に作っていきます。とりあえず一首(四句)できあがるとしばらく放っておいて後で見直し、推敲します。ことばを替えたり、韻を替えたり、第四句が第一句に移動したりして、まったく違う詩になることもあります。派生的に別に三首・四首できることもあります。

最初はどういう詩にしようかと意図もないまま作りはじめても、推敲を重ねるにつれてだんだんと何を詠いたかったのかというテーマが見えてくることもあります。不思議なもので、推敲すればするほど、ことばも表現も単純になります。こんな簡単な表現がどうして最初に気づかなかったのか、と思うこともしばしばあります。

どう表現してよいか分からないときは、古典をひもとくとよいでしょう。今は口語訳のついている漢詩集が多く出版されていますから、それらを片っ端から読むのです。必ず何か見つかるはずです。これを繰り返すと、語彙が増え、全体の構成の仕方も分かってきます。

一つの詩を何十回も推敲する、という経験を何度か繰り返すと、詩の技量が確実に上がります。

思うに、第三句目や第四句目から作り、推敲してもそれが揺るがない方は、よほど語彙が豊富で詩的センスのある達人だと思います。私の場合は、結局どの句から作っても推敲段階で変化するので、「どの句から作るの?」と聞かれたら「どこからでもお好きなところから」と答えることにしています。
 
「おもい」も創作方法も、人それぞれですから。