研修会 講演
       
     王陽明の思想と詩
                                  大場一央先生



 私の専門分野は思想であり詩についてはそれほど詳しいわけではないが、本日は王陽明の思想に絡めて詩の話をさせて戴きたい。
一、王陽明を見る前に
①儒教とは何か
●孔子の時代
王陽明という思想家を見ていくには、先ず儒教について基本的なことを知っておく必要がある。論語はどの時代でも根強い人気があり現在でも広く読まれているが、その理由を尋ねると「日常生活の上でこんな場合にはどうしたら良いのか、と迷った時の指針にしたい」という答えを多く聞く。
孔子が生きた時代は戦乱が続いていたが、孔子の魯の国や隣の斉の国は戦いに強く経済的にも豊かであった。しかし人々が幸せだったかというと決してそうではなかった。何故なのか。それは当り前のものが当り前のものと受け取られない、自分にとっての常識が他者にとっては常識ではない、従って何処にも争いの種が有り、これが世の乱れ国の乱れの一番の問題ではないのか、と孔子は考えた。
●まず「家」から
 この問題を根本的に解決するには先ず「家」から始めなければならない。論語でいう「家」とは、お互いが好き勝手なことを言い合い甘えられる「family」とは異なり、親は親として子は子として、夫々の役割を果たすべき公の場を意味する。即ち自分のすべきこと、相手が期待していることを率先して行ない、分担し、協力して折り合いを付ける、こういうことがまず「家」で出来るようにしなければいけない。地域でも国でも同じことである。「家」でやれないことが何で地域や国で出来ようか。
●礼とは
 自分が成すべきことを考える際に、礼の考え方が拠り所になる。礼とは食事、服装、接客、贈答などあらゆる面で自分が楽しく相手も喜ぶように、即ちお互いが気分良く過ごせるように、昔から経験的に積み上げて来た最大公約数的なものである。しかし、ただ昔通りにやれと言っているのではない。先ず基本を押さえた上で、場面場面で応用していく中で発展させることが出来る。
②朱子学と陽明学
●論語や経書を読んでも、なかなか日常生活に反映できない。儒教の教えを持続できるようにするためには勉強のやり方を考えることが必要であった。朱子、陽明が提唱した朱子学、陽明学は儒教を効率よく学ぶための方法論である。儒教から別れたものではなく、決して孔子と違う事を言っているのではない。
●知ということ
 陽明学の中に「知」という言葉が良く出てくるが、これは「知識」とは全く別の物である。社会の中で家の中で自分はどう生きて行くのか、他者から何を求められているのか、誰のために何をすべきなのかを考える、これが「知」である。フランス語のBon sens(良識)に相当し、感性に近い意味を持つ。
③思想の学び方
 思想を学ぶ場合、明治以来、ジャーナリズムの影響が非常に大きかった。新聞は一部だけを取り上げて印象づけるやり方が多く、人々は見出しだけ読んで分かった気になりきちんとものを見ることをしなくなってしまった。王陽明=知行合一=三島由起夫=市ヶ谷の事件、だから陽明学は危険なテロリズムの思想だ、これは切り張りがもたらす弊害の極端な例である。
 ではどう学べば良いのか。それは分かり易い本を読まないことだ。しかし難しい本を読めということとは違う。読んですぐに分かったというのは本物ではない。人付き合いと同じでそんなにすぐに分かるものではない。「暫く眺めて、中から浮かび上がってくるのをじっと待つ」ことが大切である。これがジャーナリズム的な「知」に対抗する一つの手法である。

二、王陽明小伝(1472~1528)
 浙江省余姚の生まれ。名は守仁、号は陽明。父は科挙に首席で合格したエリート官僚。
11才~31才 11才の時に天下第一等の人
物になろうと志すが、謹厳実直な父への反発もあり、才気に任せて奔放な言動を繰り返す。17才、朱子学者の「聖人学んで到るべし(どんな人間でも学問すれば聖人になれる)」の言を聞いて朱子学に傾倒したが、「心と理が一致しない」として挫折を味わう。迷いに迷って任侠など様々なことに耽った時期もあった(陽明五溺)。28才で科挙に合格。
35才~45才 皇帝に諌言した罪により貴
州省竜場に流刑。この地で儒教の根本義を悟り(竜場大悟・・・後述)、「心即理」「知行合一」を説く。39才で復帰。
45才~47才 各地に起こっていた反乱の
制圧を命じられ、巧みな戦略によって大小数十の戦闘にすべて勝利した。平定した地域に統制政治をしき、統一した意志の下に夫々の役割を考えさせ分担させることにより、最も安定した社会を実現させた。
48才 皇帝に対する反乱が勃発。陽明は数
千の精鋭部隊を率いて卓越した戦術で六万の反乱軍を殲滅させた。陽明は自分の方針を明確に示し、その実現のために夫々が何をすべきか考えることを部隊組織の末端まで徹底させた。いわば儒教的な戦いによって得た勝利であった。
49才~57才 この赫々たる戦果にも拘わらず陽明は佞臣の謀略によって「大逆罪の
証あり」とされ、すべての名誉・功績を剥奪され蟄居の身となった。人生最大の危機に際して今後の生き方を思索する中で、「致良知」説に到達した。先の「竜場大悟」の場合と同じように、危機の時には思想が進化するという特徴が見られる。
やがて名誉回復し、元老、陸軍大臣などを歴任、伯爵位を贈られる。56才、病をおして出兵し征討の帰路で死去、57才。最後の言葉は「この心、光明。また何をか言わん」

三、王陽明の思想
①竜場大悟
 竜場での流刑の日々、陽明は何故こうなってしまったのか、これからどう生きて行けば良いのか、持っている知識や学問を総動員して思索を重ねた。その結果、名誉や評価は超越できたが生死の一念はどうにもならなかった。また端座澄心していると胸中がすっきりしてきたが、やはり死の恐怖(持病の結核による死や暗殺の畏れ)を消すことは出来なかった。
 ところが病んだ従者のために水を汲み薪を燃やして粥を作り、音楽を奏でて彼らを慰めたりしているうちに、初めて死の恐怖を忘れることが出来た。聖人がここに居たらこれ以外に何が出来たであろうかと考え、ひたすら病んだ従者を養い元気づけるという日常生活の中にしか本当のものは無いのだと気付いた。これまで不安や悩みを解決する方策を、高邁な理論や学術書に求めていた、即ち外に求めていたが、これは間違いであったと悟った。
②弟子宛ての手紙
 日常生活のすべての場面が修養の最前線である。不安や悩みは逃げれば逃げるほど苦しくなる。日常生活の些細なことに全力で取り組むことで、却って不安や悩みは消え去り、心が強くなり解決策が自然に現れる。こういう趣旨のことを言っている。
③知行合一 
 「知ったことは実行しなければならない」とする解釈があるが、これは間違いである。「知っていても実行しないならば、知っているとは言えない」ということであって、決して「やれ」と言っているのではない。
親孝行についていくら本を読み学問しても、実際にそれを行わなければ知っていることにならない。親が寒そうにしていたら(知)自然の行動としてコートをかけてやる(行)、これが親孝行を知っているということである。理論や知識ではない。 
 ポイントをまとめると
・知行は合一「させる」ものではなく、誰で
も合一「している」。
・知も行もすべて心の動きである。
・身近な生活で、親身に感じられる儒教道徳
(知)を行え(行)ば、常に良い知行合一だけになる。
 ここで前出の「心即理」「致良知」にも簡単に触れておく。
心即理=正しさを知り、行を通じて実現するのは、すべて心のしわざである。
致良知=良い知(親身に感じられる儒教道徳)を発揮すれば、自然に行に反映され、行が良くなれば知も洗練されて、結果的に成果もあがる。
結局これらは全部同じことを言っている。つまり『日常生活に取り組みましょう。何をすべきか自分で考えましょう。その時出来る精一杯のことをしましょう。そうすれば必ず聖人と同じように正しいことが出来るように、どんどん成長していきますよ』ということである。これを人に言い、自分も戦争や政治の場で証明してみせた。これが陽明の偉大な処である。

 四、王陽明の詩
 ・泛海
険夷原不滞胸中 険夷 原(も)と胸中に滞らず
何異浮雲過太空 何ぞ異ならん 浮雲の
太空を過ぐるに
夜静海濤三万里 夜静かに 海涛三万里
月明飛錫下天風 月明に錫を飛ばして
天風を下る
・渓水
年華若流水 年華は流水の若し
一去無回停 一たび去って回停するなし
悠悠百年内 悠悠たり 百年の内
吾道終何成 吾が道 終に何をか成さん
 「泛海」は行く先の艱難に心を煩わせることのない悠悠たる境地であり、「渓水」は自分は何も成さないで終わってしまうのではないか、と逆の心境を詠んでいる。この相反する二つの側面は陽明の536首の詩の中に多く見られ常に表裏を成している。
これは不思議なことではない。陽明は「聖人だからといって困難や不条理に遇わない、自分を悩ますような問題は悟ってしまったらもう来ない」とは一言も言っていない。聖人だったらこんな場合、ひたすら自分の出来ることをやって乗り越えるだろうし、その困難が成長材料になって更に強靭になって行くから、どんな困難が来ても次々に乗り越えることが出来る。これは聖人だけでなくすべての人について言えることであり、そのくらいの気迫を持って生き抜かなければならない、ということを言っている。

・啾啾吟
知者不惑仁不憂  君胡戚戚眉双愁 
信歩行来皆坦道  慿天判下非人謀
用之則行舎即休  此身浩蕩浮虚舟
丈夫落落掀天地  豈顧束縛如窮囚
千金之珠弾鳥雀  掘土何煩用鐲鏤
君不見東家老翁防虎患  虎夜入室銜其頭
西家児童不識虎  執竿駆虎如駆牛
痴人懲噎遂廃食  愚者畏溺先自投
人生達命自灑落  憂讒避毀徒啾啾

知者は惑わず仁は憂えず
君胡(なん)ぞ戚戚として 眉双つながら愁う
歩に信(まか)せて行き来れば 皆坦道
天に慿(よ)りて判下す 人謀に非ず
之れを用れば則ち行き 舎(す)つれば即ち休む
此の身浩蕩として 虚舟浮かぶ
丈夫落落として 天地を掀(あ)ぐ
豈に顧って束縛せられて 窮囚の如くならんや
千金の珠 鳥雀を弾たんや
土を掘るに何ぞ鐲鏤を用いるを煩わさん
君見ずや 東家の老翁 虎患を防ぐを
虎 夜 室に入りて 其の頭を銜(くわ)う
西家の児童 虎を識らず
竿を執りて虎を駆ること 牛を駆るが如し
痴人は噎(むせ)ぶに懲りて 遂に食を廃し
愚者は溺るるを畏れて 先づ自ら投ず
人生 命に達すれば 自ら灑落(しゃらく)
讒を憂い毀(そし)りを避けて 徒に啾啾せんや

大逆罪が審議されていた時期の作。最も有名で最も傑作とされている。
誰が鳥を撃つのに千金の珠(高価な宝玉)を使うだろうか、土を掘るのに鐲鏤(伝説の名剣)を持ち出すだろうか。日常生活で判断する際に難しい理屈や高邁な理論など御大層なものは必要ないのだということを言っている。
また、「遂に食を廃す」「先づ自ら投ず」の比喩は、日常生活で何が起きるか分からないが、やるべきことをしっかりやることで解決することが出来る。くよくよと心配ばかりしていては、却って身を滅ぼすことになる、ということである。
 これを陽明の悟りの詩と解釈するのは間違いである。不安や畏れが襲いかかってくるのは避けられないことであるが、自分はそれと格闘してきっと乗り越えて見せるぞ、という意志の表明ととるべきであろう。

                           (文責 薄井 隆)