秋季吟行 成田山新勝寺 

                         写經・公園散策      案内: 森崎直武
        

十一月七日午前十時快晴、絶好の吟行日和、京成成田駅にさわやかな気持で詩朋集合、特別参加中国人留学生三名を含む二十四名。鷲野会長の挨拶ののち、幹事から簡単なスケジュールの説明。その後、総門に向かい門前町を談笑しながら進む。
新勝寺に近づくにつれて老舗も増えてきて、鰻の有名店では、職人さんが四~五人で忙しく包丁を動かしていた。さぞかしうまいかば焼きになるかと思うと、朝ながらよだれが出そうになる。そぞろに歩くこと約二十分。待ち合わせの事務員と合流、本日の内容について説明を受け、総門をくぐり清めの水を取り、小池甲羅干しの亀を見ながら、急な石磴を息詰まらせながら登る(本人だけか…)。 香煙をほのかに帯びながら大本堂に到着。それぞれ思いを込めて参拝。いよいよ写経道場へ。ちょっとその前に、成田山新勝寺の概要を紹介。

成田山の御縁起

 真言宗智山派大本山成田山金剛王院新勝寺の御本尊不動明王は、嵯峨天皇の勅願により弘法大師空海がみずから敬刻して護摩法を修せられた尊像です。京都の高尾山神護寺に奉安されておりましたが、天慶二年(九三九)平将門が反乱を起こすと朱雀天皇の密勅を受けた寛朝大僧正は、この尊像とともに関東に下り、下総の国、成田の地にて二十一日間平和祈願の御護摩を修めました。その満願の日、天慶三年(九四〇)二月十四日に兵乱は平定され、この地に新勝寺の寺号を賜って成田山が開山されました。

  訪成田山新勝寺    森崎直武
詩朋共會一房山 詩朋共に会す一房の山
石磴登來忽笑顏 石磴登り來りて忽ち笑顔
暫念安康閑合掌 暫く安康を念じ閑かに合掌すれば
心頭浄化隔塵寰 心頭浄化 塵寰を隔つ
 
一、写経

 写経とは、仏教の経文を書き写すことで、もともと中国より持ち帰った経文を広めるために書き写していたといわれています。写経する文章にも種類があり、よく用いられるのは般若心経です。比較的短いことと、心穏やかに生きていくことを説かれていることから選ばれています。その目的・効能は、心を清められる、願望の成就祈願、自然治癒力が向上、集中力・忍耐力が向上、字が上手くなることです。
大本堂地下の荘厳なる道場に着席、僧侶により懇切丁寧な写経の心得・手順等の手ほどきを受け、般若心経を合唱(この間約三十分)。心身ともに安寧となり書く気十分。般若心経は、用紙に薄く印刷されてその上を書きなぞることで完成。書く字数は二百七十八、日付・願意・写經願主・住所を含むとおおむね三百字となる。緊張感あふれる静かな時間が流れる。筆が思うに任せず時間が過ぎる。書きなぞるので簡単だと思いきやいざ書きはじめるとなかなかのものである。最も早い人は四十分とのこと。聞いて驚きを覚えたが、Kさんは三十分で提出した。
写経に要した時間は約二時間。終えたみなさんはあたかも修行僧のよう。写経の効力甚大なるかな。日常多忙につきこのような時間が持てないのが現状で、ちょうど良い機会作りができたと幹事一人自己満足。なお、御朱印は、本来写経を奉納してその後に頂くものであるという(職員談)。

   奉納写經         森崎直武
晩秋來訪古禪宮 晩秋来り訪ふ古禅宮
拝拱明王心自空 明王を拝拱して心自ら空なり
堂裏莊嚴揮健筆 堂裏荘厳健筆を揮ひ
寫終散策立金風 写し終はりて散策し金風に立つ

二、公園散策

 写経が終わり本日の二つ目の活動に入る。
公園は、昭和三年(一九二八)完成、平成十年(一九九八)大改修し、梅・桜・つつじ・新緑・紅葉と四季によって趣を変える十六万平方メートルの大庭園となった。平和大塔、書道美術館、筆魂碑、水琴窟、茶室、文学句碑等があり、ご信徒の憩いの場として、一般供用されている。今回はボランティアガイドの説明を受けながら散策をする。
道場を出て大本堂を起点に時計回りに進む。庭園には菊花大会が開催中で、紅白黄の大小さまざまな入魂作品が展示されており、写真撮影頻りなり。

  看新勝寺境内菊花展     森崎直武
遠近相望秋可憐 遠近相ひ望めば秋憐れむべし
菊花馥郁法堂前 菊花馥郁たり法堂の前
黃紅紫白競淸婉 黄紅紫白清婉を競ひ
方代蓮華誘佛緣 方に蓮華に代はって仏縁に誘ふ


額堂
 文久元年(一八六一)建立。信徒奉納の額絵馬掲額、「成田屋・七代目市川團十郎像」「青銅製大地球儀」(明治四十年)奉安、ガイド曰く、團十郎の出演料が千両であった。千両役者の語源になったとのこと。

光明堂

 元禄十四年(一七〇一)建立。旧本堂。大日如来、不動明王、愛染明王奉安。高さ十五メートル。後方に奥之院の洞窟があり、毎年祇園会に開扉。縁結びの祈願所。改修工事が万全でなく柱の漆もなく老朽化が目立つ。

平和大堂
 昭和五十九年(一九八四)建立。成田山の歴史展、写経道場(団体以外、予約受付)、五大明王、昭和大曼荼羅、納仏、掛仏奉安。
もみじ・梅(幹が灰色の苔に覆われて元気がないのが残念。)等、見ながら細く続く九十九折の坂道を下り、書道美術館を左に見て、三つある池(文殊・龍樹・龍智)の龍智に出る。浮御堂をバックに記念撮影。小島のもみじが微かに紅葉。十一月末になると万山紅に燃えるとのこと。ちょっと残念。一呼吸後は、逆に上り坂をゆるやかに右へと、爽然たる樹林を進む。散策の途中、ところどころに台風の影響をうけ、大きな倒木が見られる。大本堂の屋根も損害を被り修理中。広範囲に大きな被害にあうさまを見て、自然の猛威恐るべきことをあらためて知る。千葉県は三つの台風により甚大な災害を受けたのだ。登りつめれば平坦な舗装の道が続く。
  
文学・句碑
 高浜虚子の碑(碑面の風化が激しく句がほとんど読めない) 

凄かりし 月の団蔵 七代目

この句碑の処には、七代目団十郎と六世団蔵の銅像があったそうだが、戦時中に供出されたため、昭和十八年に八代目団蔵が七代目団蔵の追悼供養のため台座の上に句碑を建てた。
松尾芭蕉の碑、    散策の終わり近く、藤棚のそばにある追福(故人の冥福を祈る・生誕約百年か)のために一七八八年建立。旅の途中、「新大仏寺」(故郷の伊賀市)で詠まれた俳句。
丈六に 陽炎(かげろう)高し 石の上 
*丈六:一丈六尺

銅像
三池照鳳(一八四八~一八九六)、明治十六年三十五歳で新勝寺十四代貫主。成田鉄道の架設を県に取り合うなどして社会福祉活動にも参加。学校創設など教育に尽力された。
小泉岩吉 (一八六七~一九三四) 慶応三年久良岐郡六浦荘幸分村(横浜市金沢区)にとび職小泉由兵衛の三男として生まれる。小泉又二郎(政治家、小泉純一郎の祖父)は兄。一家は明治三年横須賀に移住。父は主に海軍の土木建築請負を生業とした小泉組を経営、兄又二郎が政治を志したこともあり、明治二十六年父由兵衛の跡を嗣ぐ。成田山新勝寺を崇敬し、地元の成田山信仰団体「横須賀新勝講」の初代講元を務めている。
その他目についたのは、寄付の大小無数の石碑であった。公園散策を終了し、起点である大本堂の庭に戻る。庭には堂が多数並ぶ。 

聖徳太子堂
 平成四年(一九九二)建立。我が国仏教興隆の祖を奉安。

三重塔
 正徳二年(一七一二)建立。高さ二十七メートル。五智如来奉安、周囲は島村円鐡の「十六羅漢」の彫刻、雲水紋の彫刻の入った各層の垂木は、一枚垂木と呼ばれる非常に珍しいもの。整備が行き届いて一段と美しい。

一切経堂
 享保七年(一七二二)建立。堂内中央の八角輪転蔵には一切経(仏教経典の総集)が納められ、転輪蔵の傅大士が奉安。三十年前までは信徒が中に入り、八角輪転を回したものである。一回りすれば経典を読んだことになると人気が高かった。
散策もほぼ終わりとなり石段を下り始めると、ここにも台風の影響を受けた欅の大木がある。幹の一部が切断され、石磴は、悲しみに耐えきれない涙(樹液)で覆われていた。

  倒木被切斷樹液垂      森崎直武
猛烈狂風倒木連 猛烈なる狂風に倒木連なり
幹枝斷絶石階邊 幹枝断絶す石階の辺(ほと)り
欅株液下似悲涙 欅株の液下りて悲涙に似たり
何日勇姿還拜天 何の日にか勇姿還た天を拝せん

左に二宮尊徳の修行した堂が見える。

参籠堂・水行場
二宮尊徳が二十一日間断食水行の修行をした。水行は井戸水をかぶることで行う。滝による修行ではない。
以上吟行会の目的を果たす。不思議なことが一つ。下りの石磴は短く緩やかだった。何故登り階段は高く長くなっているかと。ガイド曰く、つらい思いをして参拝することが、心に深く残る。どの寺も同じようになっているとのこと。了解。
かなり時間も経過し空腹が気になる。すでに十三時三十分をまわっている。

三、昼食


今回は事前に昼食場所を予約せず、当日申し込みをすることにしていた。朝方検討したソバ屋は午後二時までの営業になっており、タイミングが合わない。駅前通過時に「サイゼリヤ」を確認しておりそれに決定した。吟行会おなじみの店である。この店を目標に帰り、三十分弱歩く。疲れもあり朝とはかなり条件は悪い。店の前を通過するといい匂いに腹が鳴る。やっとの思いでたどり着く。早速交渉。二時過ぎで空席は結構あるが、予約していないため数名ずつに分かれて席を確保、思い思いの料理を注文、本日の反省を踏まえ楽しく談笑。最後に柏梁体の韻字を選択して十五時解散。
大変お疲れ様でした。多数参加・協力いただき計画通りに秋季吟行会を終わらせていただきましたこと深く感謝いたします。来年春季吟行会には、今回出席できなかった方も是非参加いただきますよう、何卒よろしくお願いいたします。               
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