春季吟行会 墨東散策『深川を探る』 

                                           案内 長島ツタエ
 
 会長および会員の詩              柏梁體聯句(庚韻)
令和五年春季吟行会は墨東散策第三回目、深川地区を訪ねた。
五月二十一日(日)九時半都営大江戸線、都営新宿線の森下駅に集合、
参加者は十三名だ。
朝から強い太陽が照り付け気温は二十六度に達するとの予報が出ていた初夏の一日、案内役の河野さんから時間厳守・交通事故に注意・水分補給を忘れずにとの三つの注意を受けて九時半に駅前を出発した。
      

 ① 深川神明宮

駅より歩いて五分、第一の目的地に到着。

深川発祥の地として信仰を集める神社である。
江戸時代の少し前、この地を開拓した摂津の国の深川八郎右衛門が伊勢神宮の分霊を祀ったと伝えられ、その開拓者の名前からこの辺りが深川村となったという。
神明造の厳かな社殿は、伊勢神宮を思い起こさせる雰囲気があり境内には深川七福神の壽老神も祀られていた。


  
  深川神明宮     深川神明宮 
穿行華表幟翻頻 
華表を穿ち行けば 幟(のぼり)翻ること頻りなり
素木祠堂綠映新 素木の祠堂 緑映じて新たなり
賽客幾多懃禱處 
賽客幾多懃(ねんごろに)に禱(いの)る処
深川千載信心淳 深川 千載 信心淳(あつ)し
 
 
② 芭蕉記念館


深川神明宮を出て約五分、万年橋通りの隅田川沿いに江東区芭蕉記念館がある。

芭蕉が好んだという芭蕉の葉が風に大きく揺れていた。木にはとんがり帽子を逆さまにしたような奇妙な花が咲いている。色は黄褐色、その花の上に小さい緑色のバナナのような実がついている。芭蕉の花と果実だ。
芭蕉という名前は最初に住んだ庵のこの木の名前からとったと言われている。

芭蕉記念館では、特別展の開催中だった。「ばせを翁・芭蕉の肖像」と題して二階の特別展示室いっぱいに芭蕉の肖像が飾られていた。立正大学教授の伊藤善隆先生に依れば芭蕉ほど肖像画が多く残された人はないという。弟子が描き、絵師も描いた。江戸時代中期以降、芭蕉顕彰が盛んになるとともに芭蕉の神格化が進んでいったことが背景にあるらしい。
「蕉門十哲」の解説や芭蕉の旅についての展示もあった。芭蕉は「野ざらし紀行」(四一歳から四二歳)で一流の俳人となり、「奥の細道」(四六歳)で超一流となったと述べられている。

三階の常設展示室には芭蕉の生涯とその時代、深川との関係などの分かり易い説明があった。

記念館の裏には芭蕉の句に詠まれた植物も植えられている。池もあり、草木を見ながら散策できる庭園であった。


  芭蕉記念館    芭蕉記念館
芭蕉花發墨江隈 
蕉の花発く墨江の隈
入館盈盈俳聖才 
館に入れば盈々たり俳聖の才
讀句還看肖像畫 
句を読み還た肖像画を看れば
詩情忽起暫彽徊 
詩情忽ち起って暫く彽徊す
 
 
③ 芭蕉庵史跡展望庭園

芭蕉記念館から五分ほど隅田川に沿って下ると史跡展望庭園がある。

芭蕉が深川で最初に住んだ場所らしい。隅田川と小名木川の合流する地点にあり、ここからは二つの川の流れが見られる。
隅田川にかかる清洲橋の眺めも美しい。
座像の芭蕉は穏やかな顔でゆったりとした和服姿である。二つの川を上下をする船客は爽やかな緑の公園に座す芭蕉の姿を眺めつつ しばし芭蕉の名句を思い出し口ずさむだろう。

ここで集合写真を撮り次の地点へ進む。


 
 芭蕉庵史跡展望庭園  芭蕉庵史跡展望庭園
初夏深川墨水東 
初夏の深川 墨水の東
綠陰人集弄淸風 
緑陰 人集ひて清風を弄す
溫顏肖像披襟坐 
温顔の肖像 襟を披きて坐し
旅遙遙仰碧空 
旅せむと欲して遙々碧空を仰ぐ
 

 ④ 芭蕉稲荷神社

 展望庭園より徒歩一分、すぐ左手に赤い幟旗がたくさん立っており、その奥にこぢんまりした祠があった。大正六年の大津波の後、ここから芭蕉遺愛と伝わる石蛙が出土したことから「芭蕉古池の跡」と指定された。

狭い敷地内に小さな桜の木が植えてあり「さまざまのこと 思い出す 桜かな ばせを」という木札が掛かっている。ここにあった庵が深川での芭蕉の最後の庵だったらしく、今では芭蕉稲荷神社となっている。


       
 
⑤ 万年橋

小名木川にかかる万年橋は味わいのある優美な橋だ。安定感あるアーチ、上部鉄骨の網から見える青い空、この橋を渡ると幸せが待っていると思いたくもなる。
そんな橋をゆっくりと踏みしめて歩く。
橋のたもとからの眺めは「ケルンの眺め」と言われている。隅田川にかかる清洲橋とその向こうの街並みの景色をドイツのケルンに行った心持ちで楽しんだ。


       
 
⑥ 霊厳寺

万年橋を渡って十分、霊厳寺に到着。

霊厳寺の開山は、浄土宗総本山知恩院三十二世雄誉霊厳上人であった。
江戸に教えを広めようと茅場町付近に草庵を建てたところ、上人の徳を慕う人が増えて、草庵が狭くなり、向井将監忠勝の下屋敷の芦沼を賜るなど、多くの人々の協力を得て寛永元年(一六二四年)道本山東海院霊厳
寺を建立したという。
その後明暦の大火(一六五七年)で焼失、翌万治元年(一六五八年)に現在地に替地を与えられ、移転復興させたという。
その後も関東大震災、昭和の戦災を潜り抜け、現在の立派な本堂は昭和五十六年に完成したらしい。
幾多の災難を受けながらも信者たちの篤い信仰心と地域の有力者の力で守り抜かれたこの地の大切な寺院であるようだ。
松平定信の墓所もここにある。
また江戸六大地蔵の一つと指定されている、見上げるような大きな地蔵が安置されている。
そして、同行した岡安さんの本家の墓所が大地蔵の後ろにあった。祖父母様の墓前には何人かでお参りさせて頂いた。周囲の墓地の立派さからも檀徒の底力のようなものを感じた。


  浄土宗靈嚴寺   浄土宗霊厳寺
開教而來四百年 
開教而来(じらい)四百年
衆民深敬献私田 
衆民深く敬いて私田を献ず
高潮失火多災禍 
高潮失火災禍多し
禱願太平靈刹前
 太平を禱願す 霊刹の前
 
 
⑦ 深川江戸資料館

続いて霊厳寺に隣接する 深川江戸資料館を訪ねた。

江戸時代の深川の佐賀町の様子や町民のくらしがよく分かる資料館である。
入るとすぐに昭和の大横綱、大鵬の像が来客を迎えてくれる。大鵬は江東区民であり名誉区民第一号だった。
導入展示室では深川ゆかりの人物や深川の歴史について紹介。ゆかりの人とは、例えば市川団十郎、葛飾北斎、伊能忠敬、松平定信などであり、いずれも深川に住んでいた人々である。団十郎については四代から七代までは確実に深川に住んでいた。千両役者として人気を博した為に幕府は町民の贅沢を禁じ七代目団十郎を江戸から追い出した。この団十郎を受け入れて保護したのが数年前に吟行会で訪れた成田山新勝寺だったのは記憶に新しい。団十郎がいなくなりすっかり元気と働く気力をなくした江戸(深川)町民を見て、幕府は「これはまずい」と判断し、団十郎を許し歌舞伎復活を許したという。こうしたことからも深川の町民たちは歌舞伎を守り、江戸の文化を育て、多くの文化人(団十郎、芭蕉、北斎、伊能忠敬)をも守り抜いたということになろう。

常設展示室には江戸の街並みが実物大で再現されている。八百屋、米屋、肥料屋、灯油を扱う大店などが並ぶ。また町民の住む一枚板で仕切られた長屋もあった。共同スペースとしての井戸、便所、ゴミ捨て場、稲荷などがある。
掘割、船宿、火の見櫓やその前の広場も表現されている。何事かあれば町民はその広場に集まり情報交換をしたようだ。
江戸時代の街に迷い込んだひと時であった。


        

 ⑧ 清澄庭園


 深川江戸資料館から少し戻り清澄庭園に入る。

ここは都立庭園の一つ。入場料がシニア一人70円の安さが驚きだ。
もとは江戸の豪商紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられている。明治十一年に岩崎弥太郎がこの邸地を含む三万坪の土地を取得し、社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、明治十三年に「深川親睦園」を開園したという。その後造園工事が進められ隅田川の水を引いた大泉水をはじめ、築山や全国の名石を周囲に配して「回遊式林泉庭園」として完成した。そして大正十三年に岩崎家から東京市に寄付され「清澄庭園」となる。
昭和七年には更に整備されて東京市の公園として開園したようである。大泉水に浮かぶ島、池に浮かんでいるように建てられた数寄屋造りの涼亭、周囲の緑も水に映えて美しい。


いよいよ嬉しいお弁当の時間。吟行会担当の河野さんが手配してくださった深川めし弁当が配られた。広い庭園の自由広場の木陰にそれぞれ場所を取り昼食となった。お弁当を開けるとたっぷりのあさりで炊いた深川めしに大きいあさりの串焼きが載せてある。さらにあさりの煮物と漬物と卵焼き、あさり尽くしの豪華弁当だ。美味しかった。さすが名物の「深川めし弁当」であった。(ご馳走様でした。)
弁当でおなかを満たし元気を回復したところに薄井さんから柏梁體(庚韻)の課題用紙が配られる。柏梁體をちょっと気にしながら、それでも気分よくお喋りしながら公園の奥にある「古池や」の大きな石碑を見た。それからは初夏の公園の爽やかな風を感じながら時々鳥の声を聴いて池を半周し公園の出口に予定通りの一時十分に集合出来た。


                               
  淸澄庭園      清澄庭園
快晴舊苑綠陰稠 
快晴の旧苑 緑陰稠し
池水魚龜出没遊 
池水の魚亀 出没して遊ぶ
颯颯爽風搖岸柳
 颯々たる爽風 岸柳を揺らし
鳥聲恰恰一庭幽 
鳥声恰々 一庭幽なり
 

⑨ 採荼庵趾 

清澄公園を出て清澄通りを南に下る。仙台堀川の海辺橋を渡った所に採荼庵趾がある。

ここは芭蕉の門人 杉山杉風の別荘であった。
元禄二年(一六八九年)に奥の細道に旅立つ直前まで芭蕉が住んでいた所である。
ここに庵が再現された。縁側に笠と杖を持ち頭陀袋を下げた芭蕉が今旅立たんとして座っている。口を結んだ厳しい表情である。その顔付きからは長い旅に向かう芭蕉の決意のようなものが伝わってくる。

ここで集合写真を撮り次へ進む。


    
 
⑩ 芭蕉俳句の散歩道 

採荼庵のすぐ横を流れる仙台堀川に沿って芭蕉俳句の散歩道がある。

奥の細道の俳句で、旅立ちから福井県までの十八句がおよそ八メートル間隔ごとに掲げてあった。
みんなで俳句を楽しみながら歩いた。その中から懐かしい幾つかの句を記してみる。

  
  ・行く春や鳥啼き魚の目は泪 (江戸の旅立ち)
  ・あらたうと青葉若の日の光(日光)
  ・夏草や兵どもが夢の跡(岩手県平泉)  
  ・閑さや岩にしみ入る蝉の声(山形県立石寺)
  ・石山の石より白し秋の風(石川県小松市那谷寺)


       

 ⑪ 法乗院深川ゑんま堂 

清澄通りを南に下って十分、法乗院深川ゑんま堂に到着する。

法乗院が開創されて三百九十年余り、東京の下町深川に建つこの寺院には、そのご本尊の大日如来様を慕い今でも多くの人々が集う。
本堂一階には十六枚の地獄、極楽図があった。それらの絵は悪事を重ねることの恐ろしさ、善い行いを積むことの大切さ、仏様の慈愛、命の尊さなどを説いている。
こういう絵については子どもの頃大人から聞かされた話を思い出すのだが、後日訪れた時にはこんな広告のちらしが本堂前に置かれていた。


 【四年ぶりに復活】

  地獄極楽絵解き口上(麻布十兵衛・東京ヘブンアーティスト・大道芸人)
    
    一、 日時 七月十六日(日)十一時・十三時三十分
    二、 場所 法乗院ゑんま堂境内

ちょっと聞いてみたくなりますね
又本堂の脇に建つゑんま堂に座すゑんま様からは、十九の祈願に対しお賽銭を投入すると仏様より様々な説教を聞くことも出来ておもしろかった。

  深川閻魔堂繪圖  深川閻魔堂絵図
欲喩民衆示黃泉 
民衆を諭(さと)さんと欲して 黄泉を示す
極樂歡娯花下筵 
極楽 歓娯す 花下の莚
地獄四時苛責烈 
地獄 四時苛責烈(はげ)し
可銘因果必相連 
銘すべし 因果 必ず相ひ連なるを
 
 
⑫ 成田山東京別院深川不動堂

午後二時を回ると気温も高くなり疲れも出てきて日光の照りつける大通りを歩くのも辛い。それでも「あと二箇所だ」と気持ちも新たにみんなで頑張って歩いた。深川不動堂に到着。

外壁に梵字を敷き詰めた本堂が目についた。
これは開創三百十年を期に平成二十三年(二〇一一年)に完成した新しい本堂である。この本堂では毎日護摩修業が行われ信徒の諸願成就を祈念しているという。後日、この護摩修行に参加した人から聞いた話では、数人の僧侶が法螺貝を吹いて登場し、大太鼓二つを強打して堂内に響かせ天井に届くほどの炎で護摩木を焚くそうだ。堂内に響く読経と太鼓の音、煙が参列者の体を包む。参列者の煩悩は不動明王の知恵の炎で焼き尽くされ、煙で浄化されて諸願成就されるという。この護摩修業は一日五回、日祭日は六回あるという。
この話をしてくれた若い女性は、毎月一回この護摩修業に参加しているという。
外壁の梵字は護摩修業で僧侶が繰り返しお唱えする不動明王の真言そのものの具現化だそうであり、新しい本堂は祈りの言葉で包まれた空間だという。

さて、この深川不動堂の歴史と沿革はどうだったのだろう?
江戸時代の初め歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する歌舞伎を打ったことなどにより成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちの間で高まったらしい。
これを受けて元禄十六年(一七〇三年)一回目の成田不動の「出開帳」(秘仏特別公開)が富岡八幡宮の別当永代寺で開かれた。それが深川不動堂の始まりとなったらしい。
その永代寺は明治維新後の神仏分離令により廃寺となった。しかし、不動尊信仰は止むことがなく明治十一年(一八七八年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り「深川不動堂」として存続することが東京府に認められた。
明治十四年(一八八一年)本堂が完成。その後本堂は関東大震災、東京大空襲と二度にわたって焼失したが、本尊は役僧たちが命懸けで運び出して焼失を免れたとのことである。


      
 
⑬ 富岡八幡宮

深川不動堂から脇道を二分ほど進むと富岡八幡宮の鳥居が見える。

門前仲町方面から入る正面参道ではないものの深川不動堂と富岡八幡宮との深い結びつきを示す通路のようである。
江東区富岡にある八幡神社であるが通称「深川八幡宮」とも言われている。
八幡宮で三年ごとに行われる夏の「深川八幡祭」は江戸三大祭の一つである。(他の二つは浅草三社祭と神田祭)
また江戸勧進相撲発祥の神社でもあり、境内には「横綱力士碑」を初め大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている。
富岡八幡宮の創建は寛永四年(一六二七年)菅原道真公の末裔と言われる長盛法印が信託により当時永代島と呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされる。長い歴史の中で火災、震災、戦災の被害を受けるなどして再建、修復を繰り返してきたらしい。現在の社殿は昭和三十一年(一九五六年)に造営された「重層型準八幡造り」で緑の屋根赤い殿堂、均整の取れた大変美しい社殿となった。
ここに到着した時は暑さと疲れでみんな力尽きた状態だった。しかし、美しい社殿を拝し、深川八幡祭りに繰り出す日本一の大きさと豪華さを誇る神輿(四、五トン)を見て、まるで自分たちが担いでいるような祭りの臨場感に沸き、元気をもらった。
神輿庫のすぐ隣りに伊能忠敬の銅像があった。日本測量の父と言われる伊能忠敬は深川黒江町(現在の門前仲町)に住み寛政十二年(一八〇〇年)に始めた全国測量旅行では氏神様であるここ深川八幡宮を参拝して出発したそうである。忠敬の像は聡明で、堅い意志が伝わるような顔だった。刀を差して測量器のようなものを右手に持った姿である。脚絆を巻き大きな歩幅で歩く忠敬の姿には力が漲っていた。 


  富岡八幡宮    富岡八幡宮
巡來纔到八幡宮 巡り来たりて纔かに到る 八幡宮
朱殿鮮姸映碧空 朱殿鮮妍 碧空に映ず       
今夏待望迎大祭 今夏 待望して大祭を迎ふ
熱狂光景有胸中 熱狂の光景 胸中に有り
 
 
(終わりに)

暑い中みんなよく頑張り、無事に吟行会が終了した。

歩いた歩数は一万三千歩とのこと。        

解散は予定より三十分早い三時だった。
解散
後はビールで喉を潤した人、地下鉄に乗って家路についた人とに分かれた。
深川界隈を散策し、この地域には江戸時代から水運に結び付いた人々の暮らしや信仰と文化があり、明治以降も東京の下町として生き生きした文化を開花させ今に伝わっていることがよく分かった。


素晴らしい吟行会だった。