虎 丘
 
虎丘(こきゅう) 
 海涌山とも。蘇州市の閶門外3.5㎞。春秋時代の末期、呉王夫差(?~前473)が父親の闔閭(?~前496)を葬ったところ。その三日後に白虎が上に蹲ったので「虎丘」と名づけたと伝えるが、形が蹲虎のようなので名づけた、という説もある。
東晋時代に司徒・王珣と弟の司空・王珉が建てた別荘がのちに寺となった。虎丘山といい、東西両寺に分かれていた。唐代、太祖李虎の諱を避けて武丘報恩寺と改称、会昌年間に廃されて山頂に一寺に統合された。北宋の至道年間に再建したさい雲巖禅寺と改称され、清の康煕年間には虎阜禅寺と改称された。
記録によると、南宋の紹興年間には広大な規模を誇り、琳宮宝塔と重樓飛閣が錯綜し、「五山十刹」の一つに数えられた。虎丘は高さわずか30mあまりで、遠望すると平坦な田畑の中の一小丘に過ぎないが、「千人石」と「剣池」までやって来ると雄壮な気迫がみなぎり、深山渓谷に身をおいているような錯覚にとらわれる。
寺は隋代から清代末期までに7回も破壊され、元代の「断梁殿(二山門)」を除いて現存のものはいずれも後代の再建。「千人石」「剣池」のほかに「憨憨泉」「試剣石」「真娘墓」「孫武子亭」「白蓮池」「二仙亭」「第三泉」「冷香閣」「致爽閣」「小呉軒」「擁翠山荘」などの名勝旧跡がある。

虎丘<断梁殿(二山門)>

 虎丘の麓にある。唐代に建てられ、元の至元4年(1338)に再建。単檐入母屋造りの瓦葺きで、間口柱間3間、奥行柱間2間。架構材は一般のものと異なり、柱の頂部が柱身よりやや小さく、粽形をなし、梁はやや湾曲して半月形をなすので月梁(虹梁)という。大梁は一本の木ではなく、中柱の両側にそれぞれ月梁が二本ずつあって断梁のように見えるので断梁殿、または双梁殿という。梁の長さを小さくして負荷を小さくし、木材を節約するとともに外観をよくしている。古代建築でいう「四架椽屋分心用三柱」である。屋根は清代の南方建築によくみられる形式であるが、軒の端が中央の二本の柱から両側に徐々にそり上がって円弧状のカーブをなし、さらに軒先がそり上がり、優美。

虎丘<雲巖寺塔>(斜塔)

 俗に虎丘塔という。五代周の顕徳6年(959)に着工、北宋の建隆2年(961)に完成。樓閣式を模した八角七層の磚塔で、南宋の建炎年間から清の咸豊10年(1860)までに7回火災にあい、頂部と各層の軒が壊れ、塔頂の鉄刹もなく、磚造りのみ現存。塔身は上に行くほど細くなり、ややふくらんだ感じの輪郭をなし、外壁の各層の角は円柱状になっている。各面の柱間は3間で、中央が出入り口、左右が磚造りの連子窓。柱の頂部に頭貫、その上に斗栱をのせ、腰部の軒を支え、さらに斗栱と回欄がある。塔身は外壁・回廊・塔心からなり、外壁の出入り口から回廊まで通路が通じ、廊内に八角形の塔心、その四面に出入り口があり、中央の小部屋にはいる。
 残念ながら、現在は入れない。なお頂部には仏舎利がある、とも言われるが、真偽の程は分からない。斜塔を維持するため、10数年前に地盤工事を行った。

虎丘<闔閭墓>

 虎丘の麓にある。闔閭(?~前496)は春秋時代後期・呉の国君。古書に「銅槨三重、水銀を傾けて池と為し、黄金珍宝を鳬雁と為す」とある。10万人を動員し、大きな象に土石を運ばせ、地面を掘って池を作り、土を積み上げて丘を作った。完成までに3年かかったという。闔閭は剣が好きだったので、葬るとき専諸・魚腸など3000本の剣を副葬したともいう。剣池は長方形で、深さ約7mの泉水、両側に切り取ったように峭壁がそびえ、藤のつたにおおわれ、橋が架かり、きわめて幽深な趣きがある。秦の始皇帝と呉の孫權が巖をうがって剣を掘り出そうとしたが、ともに剣を得ることができず、うがった穴が池になったので剣池と命名したとも伝えられる。また一説に、宝剣を鍛えるさい焼きを入れたところともいう。1955年夏、浚渫したさい明の正徳6年(1511)の冬に干上がって羨門が現れたという、唐寅・王鏊らに記事が絶壁に掘ってあるのを発見した。池の底の北端に岩の割れ目があり、上部が細く下部が広く、4~5人が入れる穴になっていた。穴の北側の石壁は大きな青石を積み上げたもので、春秋・戦国時代の洞室墓の様式に似ていて、羨門の可能性がある。

     
     
     
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