秋季吟行会 
墨東散策『向島を行く』


                     案内:河野幸男
 
     会長及び会員の詩                柏梁體聯句 
 
令和四年春季吟行会の『両国界隈を探る』に続き、秋季吟行会は墨東散策の第二弾として向島を散策した。十一月十九日(土)浅草寺雷門に集合した総勢十六名は、定刻十時に出発して先ず吾妻橋を東岸へと渡り、向島方面へ。
当日は好天に恵まれ、隅田川は上流・下流ともよく見渡せて、どんな詩をまとめられるか期待と不安が入り混じった。
  淺草寺雷門    浅草寺雷門
歩輕早曉小春天
 歩は軽し 早暁 小春の天
仰見山門絶俗緣 仰ぎ見る山門 俗縁を絶つ
賽客來參祈願處 賽客来参し 祈願する処
鷗盟結集二神前 鴎盟結集す 二神の前
 
     
      
吾妻橋を渡る


吾妻橋を渡る。首都高速六号・向島線が通り、アサヒビール本社ビルの金色のオブジェが見える。このオブジェは一九八九年完成し、『新世紀に向って飛躍する燃える心』を表現しているという。橋を渡り左折してすぐに墨田区役所がある。高層ビルで、ビルの向こうに名物のスカイツリーが肩を並べるように見える。やはり向島は面白い。
区役所脇の緑地公園内に、勝海舟銅像がある。この地は、海舟がふるさとの川として親しみ、愛していた隅田川に接しており、剣・禅の修行に励んだ地であったことから銅像建設地に選ばれた。江戸城無血開城にあたった四十代半ばの姿である。
 懷勝海舟      勝海舟を懐ふ
銅像仰看隅水前
 銅像仰ぎ看る隅水の前
維新大業頼君全 維新の大業 君に頼って全し
人生七十多難事 人生七十 難事多し
克服根源仁與禪 克服の根源 仁と禅と

 
      
     
言 問 橋


隅田川に沿ってしばらく北上すると言問橋が見えた。道路を横切り、階段を上って橋のたもとに出る。
在原業平の歌があまりにも有名な歌枕であるが、今はその面影も無い。只、たくさんの車が行き交っているのみであった。
 *名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと (業平)
隅田川の向こう岸の、小高い山に待乳山聖天がある。服部南郭が「夜墨水を下る」の詩を作ったといわれる場所である。今は高い建物が建ちその場所からは隅田川は見えない。
                                                  
      

     牛嶋神社
  

言問橋の隣にあるのが、牛嶋神社である。秋天の下、黄色に染まった銀杏の大樹に囲まれた閑静な環境の中に鎮座していた。この神社は本所の総鎮守社で、幕末時は弘福寺の近くにあり、御前王子権現とも呼ばれていた。隅田公園の建設工事に伴い、現在地に移っている。島田虎之助道場に内弟子として住み込み腕を磨いた勝海舟が毎晩当神社境内で夜稽古を行っていた逸話も残されている。
また、撫牛(なでうし)が有名で、自分の悪いところと同じ部分を撫でると病気が治るといわれ、体だけではなく心も治る心身回癒の祈願物で、子供が生まれた時に涎かけを奉納すると健康に成長するという言い伝えもある。時節がら、黄葉がひらひら舞う中、七五三詣での親子連れや参拝客で賑っていた。また、五年に一度の大祭では、鳳輦(ほうれん)を牛が引き、五十基の神輿が町を練り歩き、宮入りするそうだ。
  牛嶋神社看賀七五三者   牛島神社にて七五三を賀す者を看る
神祠鎭地墨江傍
 神祠地を鎮む 墨江の傍
一碧天空銀杏黃 一碧の天空 銀杏黄なり
賽客撫牛祈健勝 賽客牛を撫で 健勝を祈り
稚兒拍手喜聲揚 稚児手を拍ち 喜声揚がる

 

    三囲(みめぐり)神社


牛嶋神社から三囲神社へ行く途中、ある道路標識が目に入った。「地震等での災害時、一時避難集合場所」と、あった。
そこは何と「海抜〇・四メートル」と表示してある。本当に避難集合場所としてふさわしいのかの疑問が頭を過ぎった。三囲神社の鳥居をくぐると、興味深い数々の石碑や、三越と同じライオン像が迎えてくれた。
この神社は、浅草の山谷堀入口から「竹屋の渡し」で渡った地点にある。貴重な石碑の宝庫で知られ、弘法大師が祀った田中稲荷が始まりという。三囲の名は、土中から発見された老翁像の周りを白狐が三度回って消えた縁起に由来する。また、日照りが続いた元禄六年(一六九三)、俳人宝井其角が雨乞いの句を献じた翌日、雨が降り始めたという逸話がある。 

*ゆふだちや田をみめぐりの神ならば(其角)

これによって神社の名は広く知られるようになり、京都の豪商三井家が江戸に進出した際には守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀した。なるほど、これでライオン像が鎮座しているのも納得できた。また、池波正太郎著の「鬼平犯科帳」や「剣客商売」の舞台でもあ
る。
 
   三圍神社      三囲神社
華表三圍守護神
 華表 守護神を三囲し
俳人祈雨句碑陳 俳人祈雨して句碑陳ぶ
髙風颯颯響秋社
 髙風颯々 秋社に響き
楓葉萩花搖落頻 楓葉萩花 搖落頻なり

 

     弘福寺

川に沿って少し北上すると弘福寺である。

弘福寺は鉄牛和尚が江戸時代前期の延宝元年(一六七三)に開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院で、禅宗黄檗宗(おうばくしゅう)の名刹である。現存の伽藍は、昭和八年に再建されたもので、本堂、山門、鐘楼などは禅宗の中でも最も中国に近い宗派のものである。他の寺院建築にあまり見ない特異なものである。

また勝海舟との縁も深く、師の勧めで本寺に通い、数年間大勢の雲水と共に参禅しており、後年その剣禅一致の修行は、幕末の世情波荒き時にあっても、「春風面を払って去るの心地」を開く機縁になったと「氷川清話」のなかで述懐している。境内右手に、風外和尚禅師自刻の父母の石像があり、和尚の「風の外」の文字より風邪除けのご利益があろうと民間信仰を集め、人呼んで「咳の爺婆尊」と称し、口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快のおり、煎り豆に番茶を添え供養する習わしが伝わっていて、参拝者が絶えないという。お土産として『家伝せき止飴』を三百円で販売していた。詩吟の発声に効果ありとみて五袋購入した。
この寺は隅田川七福神の一つ、布袋尊を祀っている。
弘福寺大雄宝殿前で集合写真を撮影。
  
  弘福寺       弘福寺
古刹開基三百年
 古刹開基して三百年
唐風結構鐵牛傳 唐風の結構 鉄牛伝ふ
海舟往昔修行處 海舟往昔 修行の処
祀布袋尊黃檗禪 布袋尊を祀る 黄檗の禅

 
 
     長命寺  

弘福寺の隣りが長命寺である。三代将軍家光がこのあたりで鷹狩りの折、急な腹痛に襲われ、この寺の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したことから「長命寺」の寺号を与えられたと言われている。境内には今なお古井戸が現存する。居合わせた寺の老婆が伝説を物語ってくれたので、感慨深く拝聴した。

その他、境内には幕末の外国奉行成島柳北(柳北仙史)の石碑、十返舎一九の辞世の歌碑、松尾芭蕉の雪見の句碑もある。一角に女優の木ノ実ナナの石碑もあり、興味をひいた。

*この世をばどりゃおいとまにせん香の煙とともに灰左様なら(一九)
*いざさらば雪見にころぶ所まで(芭蕉)
*風のように踊り花のように恋し水のように流れる(木ノ実ナナ)
  長命寺      長命寺
聞説將軍行放鷹
 聞くならく将軍 行きて放鷹し
俄催腹痛倚禪僧 俄かに腹痛を催し禅僧に倚る
井泉一飮忽平癒 井泉一たび飲めば忽ち平癒し
長命賜名猶繼承 長命 名を賜りて猶ほ継承す

 
 
     言問団子~桜の碑へ


言問団子の由来は諸説あるが、有力な説としては明治四年の創業で、植木職人の外山佐吉という人が、団子を売り出すにあたって隅田川にちなむ在原業平の和歌を持ち出して「言問団子」と名付け、人気の店となったことから、この付近が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それに合わせて業平を祀ったことに由来するというものがある。

またTBSアナウンサーの外山惠理さんの実家でもあり、池波正太郎の「鬼平犯科帳」にも登場する。他にも、やりとりした直筆の手紙が残っている幸田露伴など多くの文人が訪れている。

店舗前にある歌碑に刻まれた都鳥の歌は、野口雨情の詩で、店内で詠まれたものと歌碑に記してある。
  *都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る 

我々が訪ねたのは午後十二時半ころであった。下見の段階で、これから昼食なので団子は食べられない。代わりにお土産購入で、と話してあり、お店のお母さんが、愛想よく応対してくれ、番茶を振る舞ってくれた。多くの会員がお土産を求め、一役買ってくれた。 
長命寺桜餅(山本や)へ向かう途中に「桜の碑があるはずだ」との鷲野会長の言葉で、キョロキョロと探しながら歩く。大きな石碑ですぐに発見できた。向島界隈はどこに行ってもスカイツリーが見られ、絶好の背景として写真におさまっている。この碑もバックにスカイツリーがあり、良い雰囲気を醸し出していた。石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、初め四代将軍家綱の命で、庶民と共に楽しむためにと植えさせ、八代将軍吉宗が数を増やし、隅田村の名主に世話を託した。その後時代は下るも百株、二百株と植樹を寄進する者が増え、江戸庶民の行楽の場へと変貌していった。
  
     
     長命寺桜餅(山本や)

堤防に出るとすぐに長命寺桜餅(山本や)と暖簾がかかった店がある。先ほど訪ねた長命寺の言わば背後にあり、隅田川に面した堤防の上にある。長命寺の桜餅は、享保二年(一七一七)当時、長命寺の門番をしていた初代山本新六が墨堤の桜の葉を塩漬けにして、餡の入った餅を包むというユニークな菓子、桜餅を考案し、長命寺の門前で売り出したものが始まりである。独創的な点は、笹団子などとは異なり、桜の葉を加工して塩漬けにしたもので餅を包んだところにあった。この桜餅はたちまち庶民の人気を得、江戸を代表する名菓の一つとなった。文政七年(一八二四)屋代弘賢が、桜餅に使われる桜の葉から売上高の調査をしたものがある。この年、塩漬けにされた葉は、七十七万五千枚。当時は二枚で餅を包んでいたので、餅はこの半分、三十八万七千五百個となり、売り値は一個四文なので、二百二十七両余りとなったという。百年余りで大ヒット商品に育ったのである。思えば長い話である。電話もなし、ラジオ・テレビも無い、新聞もない時代にほぼ口コミで販路を広げたのである。長い時間がかかるのも無理はない。しかし、初代山本新六の機転があれば、かわら版などによる宣伝なども考えたに違いないが、実際はどうであったか、あれこれ考えを及ばすのも悪くない。

正岡子規はこの長命寺桜餅「山本や」の二階に仮寓していた。簡単にいえば下宿していたのである。
明治二十一年(一八八八)の夏三か月ほどである。自ら「月香楼」と名付け、書物の散らばった坐る所さえないような部屋であったが、友人は多く立ち寄ってくれた。ここで「七艸集」を完成させた。それを見せられた漱石は読んだ感想を「七艸集評」として、漢詩を付して返信している。大いに発憤したと伝えられている。子規はよほど隅田の下宿が気に入っていたらしく、次の短歌を詠んでいる。

 *向じま花さくころに来る人のひまなく物を思ひける哉
 *花の香を若葉にこめてかぐはしき桜の餅家つとにせよ
 *から山の風すさふなり古さとの隅田の桜今か散るらん

  月香樓       月香楼
小春散策墨江涯
 小春散策す 墨江の涯
言問橋邊鳥語譁 言問橋辺 鳥語譁し
騷客一同催興感 騒客一同 興感を催す
子規三月假寓家
 子規三月 仮寓の家

 

     桜 橋

桜橋は台東区と墨田区の提携事業として昭和六十年に竣工した。

隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ。X字形の特異な形をしており、花見シーズンには多くの人が両岸の桜を楽しむ為にこの橋を渡る。景観との調和を考慮した美しい橋である。橋の中ほどに「双鶴飛立の図」の彫刻がある。原画は平山郁夫画伯、彫刻は細井良雄の作である。背景には向島のランドマークである東京スカイツリーが聳え立っていて、まるで一幅の絵画のような風景であった。

この橋は、映画やドラマによく使われることでよく知られており、中山美穂が向島の芸者を二役で演じた「おヒマなら来てよネ!(フジテレビ)」でも毎回登場した。

  櫻橋看平山郁夫畫伯畫  桜橋にて平山郁夫画伯の画を看る
溶溶江水白鷗連
 溶々たる江水 白鴎連なる
十里長堤泛碧漣 十里の長堤 碧漣泛かぶ
時看飛翔雙鶴畫 時に看る 飛翔双鶴の画
恰凌高塔上秋天 恰も高塔を凌ひで 秋天に上る

 
 
墨堤の紅葉満開の景色を見、岸壁に佇む白鷺やユリカモメの飛び交うのを眺めながら、昼食の場所である手打ちそば「言問やぶ」へと向かう。

  墨堤秋望      墨堤秋望
渡橋信步大江旁
 橋を渡り歩に信す 大江の旁
十里河堤帶夕陽 十里の河堤 夕陽を帯ぶ
寂寂一鷗休岸壁 寂々たる一鷗 岸壁に休ひ
如然錦繍染秋霜 然ゆるが如き錦繍 秋霜に染まる

 

ほぼ約束の時間一時半に到着。吟行の疲れを癒すと共に、美味しいそば料理に舌鼓をうち、吟行の話題に花が咲いた。店のご婦人の一人が、中国語を勉強していた方で、漢詩にも興味をもっていて会員と丁々発止の会話する場面もあり、終始和やかな場となった。
 柏梁体韻字を選択し、十五時に解散した。約一万歩の行程であったが、晴天に恵まれ無事終わる事ができ墨東・向島界隈の多くの名跡を散策できた貴重な一日であった。
令和五年一月記