鷲野正明 中級のための漢詩創作 ーさまよえる中級人にむけて 其の2ー 令和元年10月18日~ |
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33雲について(一)「白雲」 | |||||
「雲」は、水蒸気が上昇し、上空で冷えて水滴や氷の粒となり、それが一団となって浮かんでいるものを言います。しかし、昔の中国では、「雲」は山の洞穴に住んでいて、朝、洞穴から湧き出て、晩にはそこに帰るものと考えられていました。陶淵明の「帰去来の辞」に
とあります。「岫」は山の洞穴のことで、「岫雲」と言えば、山の洞穴からわきでる雲です。 杜甫の七言律詩「返照」(頷聯)には
「夕映えは川に差し込んで絶壁にちらちらと反射し、山に帰ってゆく雲は山の木々を包み込み、村も見えなくなってしまった」と言います。 雲と言えば「白」です。「白雲」は、ふつうに白い雲を言う場合もありますが、次のイメージで詠われることがあります。 白雲 = 社会的な束縛から解き放たれている → 自由の象徴 このイメージをさらに限定すると 白雲 = 隠遁の比喩 となります。杜牧の「山行」(承句) 白雲生処有人家 白雲生ずる処人家有り の「人家」は、白雲のイメージから「隠者の住まい」となります。この「白雲=隠遁」のイメージをより端的に詠うのが、王維の「送別」です。
最後の聯は「君がそのつもりなら、去るがよい。もう二度と問うこともやめよう。君の向かう所には白雲が尽きることなくわき上がっている」という意味です。 「白雲郷」は天帝のいる所、仙郷。「白雲居」は仏寺を言います。 |
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34 雲について(二)「青雲」 | |||||
「青雲」は、「青い雲」「青みがかった雲」ですが、詩でのイメージは、 ①白雲とまったく逆のイメージ ②白雲と同じイメージ の二通りあります。①の白雲とまったく逆のイメージは、拙著『はじめての漢詩創作』にも書きましたが、「青雲」の前後のことばが省略されたものと考えられ、すべて補うと 青雲 = 高く青い空に浮かぶ白い雲 ということになります。高いところにある雲なので、転じて高位高官をさします。 白居易に「青雲」を用いている詩があります。五言古詩「初授拾遺」(初めて拾遺を授けらる)です。
「輝く太陽に近づいたことに驚き、青雲の器ではないことが恥ずかしい」。白日(輝く太陽)は皇帝の比喩です。皇帝のおそばにお仕えすることになったことに驚きながらも、高官の器ではないことが恥ずかしい、というのです。 「青雲の志」は、大きな望み、です。張九齢に「照鏡見白髪」(鏡に照らして白髪を見る)があります。
②の白雲と同じイメージは、山林に風月を友とするような隠逸の生活、高尚な志操、ということです。隠逸の生活をする人を「青雲客」、青雲の客(かく)と言います。 詩では、②はあまり見かけません。「白雲」があるからでしょう。 学生に「青雲とはどんな雲か」と質問すると、みな「お線香」とか「お線香の煙」と答えます。 |
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35 雲について(三)「<色>+雲」 | |||||
青雲のように、「色」+「雲」の語がいくつかあります。「~色の雲」「~がかった雲」という意味になります。そして以下のようなイメージや他の意味合いが加わったりします。 紫雲 = めでたい雲 紅雲 = 夕焼け雲、朝焼け雲 緑雲 = みどりがかった雲 ①豊かな黒髪 → 美人 ②青葉がさかんに繁るさま 翠雲・碧雲 = みどりがかった雲 「緑」は身近で、あたたかな感じ。「翠」「碧」は、凛とした感じです。 黄雲 = ①黄色いめでたい雲。 ②黄砂などを含んだ雲 → 荒涼としたイメージ ③稲や麦が黄色く実っているさま。 代表的な詩として、②は、高適の「別董大」(董大に別る)。
③は、日本漢詩ですが、虎関師練(こかんしれん)の「秋日野遊」。
赤雲 = (不気味なほどに)真赤な雲 → 不安をかきたてる赤い雲 杜甫の「羌村」其の一に
「西の空に聳え立つ真赤な雲、その雲の切れ間から夕陽の日脚が平原に差し込んでいる」。 妻子を疎開させている鄜州羌村に帰ってきたことを詠う冒頭です。妻子は息災でいるだろうか、と不安な気持ちが反映されています。 |
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36 雲について(四)「浮雲」 | |||||
「浮雲」は、浮き雲です。『論語』には 不義而富且貴、於我如浮雲(述而) 不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し 「不義をはたらいて金持ちになり身分が高くなるのは、私にとっては浮き雲のようなもの」。つまり、不義で手に入れた富貴は自分には無縁なもの、というのです。正義による正当な富貴はよい、というのであって、いつも清貧であれというのではありません。いずれにしても、浮雲は、遠く離れて無縁であること、当てにならないことを言います。 漢詩の世界では、浮き雲は、あてもなくどこへでも漂い流れてゆくため、旅人に喩えられます。 杜甫は「春日憶李白」(春日李白を憶ふ)でずばり言います。
浮雲は一日中流れ去って行き帰ってこない。そのように旅人も行ったまま帰ってこない、と。 李白は「送友人」(友人を送る)で
「流れ行く雲は旅人である君の心を、紅くもえる夕陽は別れを惜しむ私の情をあらわすかのようだ」と言います。旅人の不安な心と、別れをおしむ故人(友人)の情を詠います。良い詩ですので、全詩を挙げておきましょう。
第四句の「孤蓬」も、あてもなくさまよう旅人を言います。 |
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37 雲について(五)「朝雲」 | |||||
「朝雲」は、朝の雲、つまり朝焼け雲です。「霞」も朝焼け雲を言うことがありますが、同じ朝焼け雲でも「朝雲」はちょっと特殊で、男女の色恋を連想させる、艶っぽい雲です。 戦国時代・宋玉の「高唐の賦」の序に、楚の懷王の故事が語られています。 昔、懐王が高唐観に遊び、疲れて昼寝をしたところ、夢の中で美しい女性が現れ、王に向かって言った。「わたしは巫山の神女で、高唐観に厄介になっています。王がここにいらっしゃることを聞いて、枕席を温めにまいりました」。 王はこの女に情けをかけてねんごろになった。 女が去るにあたって言うには、「わたしは東山の南、高丘の嶺にいて、夜明けには朝雲(ちょううん)となり、日暮れには行雨(こうう:にわか雨)となって、毎朝毎晩、陽台のもとに参ります」。 翌朝、王が陽台の方を眺めると、果たして女の言う通りだったので、神女を祀って廟を建て、朝雲と命名した。 この説話から、後世の詩文では「雲雨」よって妖艶な女性や、男女の交情を喩えるようになりました。 李白の「清平調詞」にも詠われています。
「一枝の紅く艶やかな牡丹の花は、結ぶ露ごとに香りを漂わす。この美しさを前にしては、朝雲(ちょううん)となり行雲(こううん)となって現れた巫山の神女への恋心さえ、空しくおもわれる」。もちろん、牡丹の花の美しさは、楊貴妃の美しさです。 李白の「早発白帝城」(早に白帝城を発す)の起句 朝辞白帝彩雲間 朝に辞す 白帝彩雲の間 の「彩雲」は朝焼け雲です。白帝城のある地方は楚の国ですから、李白が「彩雲」と表現したのは、故郷に残してきた女性を思い出しているのだ、という説もあります。
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38 雲について(六)「~雲」 |
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陶淵明に「停雲」という題の詩があります。出だしは
注には「馬車の蓋(かさ)のような雲」とあります。辞典には「移動しないでとどまる雲」と。また注に「親友を思うなり」とも。「停雲」を詠うと、友を懐かしむおもいを込めることができます。 雲の字がつく語をいくつかあげます。具体的にどんな雲か、説明できますか? 怪雲、閑雲、慶雲、法雲、慧雲、弱雲、奥雲、慈雲、怡雲、痴雲、頑雲、獸雲、 使用例が分かるとイメージもわくと思います。調べてみてください。よくわからない時は作詩には使わないようにしましょう。 最後にあげた「獸雲」は『浮生六記』で作者の沈復(しんふく)と妻の芸(うん)が聯吟した句にあります。どのような雲かよく分かりません。 |
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39 「寄」について | |||||
人偏の「倚」については第二十七回でみました。「もたれかかる」という意味ですが、「寄」はどうなのでしょうか。 「寄」は「よせる」で、遠くにいる人に何かを送ることをいいます。たとえば 寄言 言を寄す 言づてする 寄信 信を寄す 手紙を送る 李白の「王昌齢の龍標へ左遷せらるるを聞き、遥かに此の寄有り」では
とあります。 わたしはこの悲しみの情を明月にことづけよう、という意味になります。 では後ろに「窓」をつける「寄窓」はいけないのでしょうか。じつは陶淵明の「停雲」に次のようにあるのです。
静かに東の窓に身を寄せ 前例がありますから、「寄窓」も使えます。「倚窓」とどうちがうのでしょうか。 「倚窓(窓に倚る)」は物理的あるいは身体的に「窓にもたれる」ことをいいますが、「寄窓(窓に寄る)」は「窓に身を寄せる」ということで、心理的に何かから逃れて、何かから離れて、身をよせる、ということだと思います。 ちなみに隠者の陶淵明は「東皐」(東の丘)を散策して嘯いていました。陶淵明の場合「東」が鍵ということになります。 「寄」はその他たくさんの使い方があります。辞典で確認してください。 |
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40 「水為郷」(水を郷と為す) | |||||
「A為B」は「AをBとなす」と読み、AをBとする、という意味になります。 ですから「水為郷」(水を郷と為す)は、「水を郷とする」、つまり水郷だ、ということになります。 『唐詩選』に用例があります。孟浩然の「杜十四の江南に之くを送る」。
〈ここ荊の国と君が行く呉の国は、相接して水を郷としている。〉ひと続きになって水郷地帯をなしている、と。 「A為B」は「以A為B」(「Aを以てBとなす」)を簡略にしたいい方です。 「以為B」なら「以てBと為す」または「以為(おも)へらくBと」と読みます。読み方は前後の文脈によって変えます。意味は、そこでBとしている、Bとみなす、Bだと思う等、やはり文脈によって工夫しなければなりません。 「水為郷」は、楽府詩、白楽天、陸游などの詩にもみられます。 「為」は、「なす」のときは平、「ために」のときは仄です。 |
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41 「ことば」はやさしく | |||||
作詩には、やさしい「ことば」を使いましょう。 初級から中級になると、とたんに難しい漢字や難しい熟語を使ったりします。詩語表や辞書から一生懸命探し出すのでしょう。上級を自任しいている人も、奇をてらった「ことば」を使ったりします。 が、これまで読んできた詩で、難しい漢字・熟語を使っている作品はありましたか? なかったと思います。みな、わかりやすい漢字や熟語で風景や情況を具体的に描写し、その風景・情景の中から作者の「おもい」が滲み出てくるように詠っていました。 言葉が見つからないからといって、詩語表や辞書から、ちょっとカッコよく、難しい「ことば」を安易に使うのは避けたほうがよいでしょう。説明や報告になったり、意味不明になったりしがちですから。 かと言って、いつも使っている漢字・熟語も、知ったかぶりで安易に使うと、間違うことがあります。「ことば」選びには次のことに気をつけます。 ①使いたい言葉が日本語か、それとも漢語か → 漢詩には漢語を使います。 ②漢語でも、詩で使ってよい「ことば」か、散文だけの「ことば」か → 漢詩はいわゆる「詩語」を使います。 ③「詩語」でも、自分の詩のなかで活きるか、使い方が間違っていないか→ 使用例を探し、検討する必要があります。特殊な「ことば」は、固有名詞と同じように、その漢字のもつ意味、字づらが詩のなかで活きないといけません。 漢詩は、中国の古典詩ですから、外国人の私たちは基本にたちかえって「ことば」を正しく使うようにしないといけません。これでいいだろう、ではダメです。こういう使用例があるから、いまここでこう使っても大丈夫、と確認してから使います。 |
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42 「助字」を有効に | |||||
副詞や接続詞の「助字」は、詩を作るうえでとても有効です。 心の微妙な揺らぎを表現できます。 私たちが使っている日本語と似ているようで全く違うものがありますから、気をつけなければいけません。 たとえば 「ようやく」と読む「漸」は、〈ようやく〉ではありません。〈次第に〉〈だんだんと〉という意味です。 「しだいに」と読む「次第」は、〈順に〉という意味です。 日本語の〈ようやく〉は、〈やっと〉という意味ですが、その時は「才」「纔」「僅」などを使います。「才」「纔」「僅」の読み方は「わずかに」です。 「僅」は「ほとんど」と読み、〈~に近い〉という意味もあります。少ないという意味の〈わずか〉は、「僅」「少」「微」などです。 ややこしいですね。辞書の「同訓異議」や「助字」解説で意味や用法を確認しながら使います。 違いを実感し会得するには、具体的に詩を覚えとよいでしょう。 常に古典の名作に触れることです。文庫本などで、中国の詩が、書き下し文・口語訳・語釈つきで各種出版されています。お気に入りの詩集をボロボロになるまで読み込むとよいでしょう。 |
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43 「助字」の効果(1) | |||||
漢詩の名作は「助字」を効果的に使っています。 王維の「元二の安西に使いするを送る」は、第三句にだけ「助字」を使っています。
渭水のほとりのまちに、朝、通り雨が降り、町中のホコリを洗い流し、旅館のそばの柳もたった今芽吹いたばかりのように青々となった、と。「柳」は、枝を手折って環にして餞別として贈ります。別れの象徴ですから、「柳色新」で別れの悲しみがまた新たに湧き起こったことをいいます。そこで、第三句、君にさらにもう一杯勧めるから、飲みほしてくれ、と。 「更に尽くせ」と言うからには、それまで何杯も飲み、十分別れを惜しんでいたこと、そして今まさに出発しようとしていたことが了解されます。「柳を見てまた悲しくなったから、せめて一杯でいいから、さらに飲みほしてくれ」というのです。 「更に」という一字で別れの「場面」と「心の揺らぎ」が一気に伝わってきます。そして第四句、「安西」へ行く通過点の「陽関」を出して、果てしもない距離と時間を想起させ、悲しみの大きさの「尽きない」ことを詠います。 |
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44「助字」の効果(2) | |||||
次は、杜牧の「贈別」です。「助字」を四つ使っています。
感じやすい多情の人は、別れの時、悲しみのために、かえって無情になってしまう。さかづきを前にして笑おうとしても、顔がひきつって、笑いにならない、と。 「総て」は「まったく」という意味合いです。多情なのに、悲しい別れではかえってまったく無情になる、と。無情だから、感じるのは、顔が引きつることだけだ、と。 第三句の「還」は「また」と読みましたが、意味は「予想に反して」ということです。人は無情で涙も出ない、それに反してローソクは「心」(=芯)があって、私に替わって夜明けまで涙を流してくれる、と。ローソクが燃えるときに垂れるロウを「涙」と言います。「蠟涙」は別れの象徴です。 |
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45 「得」について | |||||
たとえば「得見」と「見得」。 意味は簡単に言えばどちらも「見ることができた」「見た」ですが、読み方と意味合い(ニュアンス)が違います。 「得見」は「見るを得たり」または「見ることを得たり」と「得」を動詞で読みます。 「得る」ことに主眼がおかれ、見ることができるかどうか分からなかった、あるいは見れないだろうと思っていたのに、見ることができたことを言います。 「見」は「見ること」という名詞です。結果的に「見た」のですが、見る機会があったり手段があったり、条件が整って見ることができたのです。 一方の「見得」は「見得たり」と読みます。 意味はやはり「見ることができた」ですが、こちらの「見」は動詞で、見るという動作に主眼がおかれます。つまり、見ようとして見たことを言います。ちゃんと見ることができた、といった意味合いです。 「得」は動詞の後に添えられる助字です。 同様に「得識」(識るを得たり)は識る機会や手段がなく識ることができないと思ったが、識る機会を得て識ることができた。 「識得」(識り得たり)は、識ろうとして、ちゃんと識ることができた、となります。 ついでにもう一つ「渡」を見ます。 「得渡」(渡るを得たり)は渡る機会や手段を得て渡ることができた。 「渡得」(渡り得たり)は、渡ろうとしてちゃんと渡った、となります。 前後の脈絡によって訳し方はかわりますので、それは注意してください。 杜甫の詩には「得見」(「見るを得たり」)は
などわずか二三の例しかありません。 「見得」(「見得たり」)は見落としがなればば、まったくありませんでした。見たことを具体的に描写すれば、「見得たり」と言わなくてもいいのです。逆に「見得たり」と言うときは何か特殊な事情があることになります。 |
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46 「不得」について | |||||
「得」の否定形です。 考え方は「得〇」「〇得」と同じで、例えば「不得見」(見るを得ず)は見る機会や手段がなくて見られない、見なかった。 「見不得」(見得ず)は見ようとして見られない、見なかった、という意味です。 杜甫には「不得見」(見るを得ず)は2例、「見不得」(見得ず)は1例もありませんでした。 「渡」ならあるだろうと「不得渡」を検索したところ、杜甫にはありませんでした。散文にはたくさんあるのですが、 詩ではようやく陸游の「上巳臨川道中」に
がありました。渓が深く、渡るための橋がなくて渡れない、ということです。 「渡不得」(渡り得ず)は、李頎の「陳章甫を送る」に
の例がありました。舟があるので渡れるわけですが、停まっていて渡れない、と。 張籍の「春江曲」には
がありました。舟が小さいうえに風がつよくて渡れない、と。渡ろうにも渡れないのです。 渡るための機会や手段がなくて渡れないのか、渡る手段はあるのに渡れないのか、漢字の位置が入れ替わるだけで意味合いが違ってきます。 |
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47「相思」の「相」について | |||||
「相」は仄声と平声の二つがあります。 仄声では ①見る ②かたち ③たすける ④補佐役 ⑤世話役 ⑥大臣 ⑦大臣となる 等の意味があります。 「相人」は人を相(み)る、人相をみる、ということで①です。 「人相」は②、「宰相」は⑥です。 平声にも ①見る の意があります。 そして作詩で重宝するのが②「あい」です。 「あい」は「こもごも」「ともに」という「相互」に関係しあう場合もありますが、動作に対象のあることを明らかにする働きをして、「相思」は単に「思いを寄せる」という場合が多いようです。 張若虚の「春光花月の夜」。
今夜舟に乗る人は誰だろう、月下に夫を思うのはどこの楼台だろう。 「春光花月の夜」には「相望」「相聞」もあります
この時、彼がいる所を眺めても声は聞こえない。できるなら、月の光を追いかけてあなたを照らしてみたい。 動作に対象のあることを明らかにすることがよく分かります。 「相識」も同じです。「相い共に識る」と言えばお互いに識っていることが分かりますが、「相い識る」だけですと、双方向なのか、一方向なのか、詩の全体から判断することになります。 次の例は動作に対象のあることを明らかにします。
次の例は、「互いに」です。 李白「望天門山」
次の杜甫の「衛八処士に贈る」も「互いに」です。
人の世でお互いに顔を合わせないことは、どうかすると、あの参星と商星のように隔たっているものだ。 |
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48 「始」と「初」について | |||||
「始」と「初」、副詞ではどちらも「はじめて」です。 ウグイスが「始めて鳴く」と「初めて鳴く」はどう違うでしょうか。 「始」は、それ以前の事態から何かが「開始」したことを表します。ウグイスなら、春になってもう鳴いてもいいのにまったく鳴き声がきこえてこない、それが鳴いた。そのとき「始めて鳴く」と言います。鳴くことを期待していますから、「やっと、ようやく」鳴いた、という意味合いになります。 「初」は、「たった今・折しも~したばかり」「ようやくそうなったばかり」であることを表します。ウグイスがたったいま鳴き出したことを「初めて鳴く」、あるいはやっと鳴き出したことを「初めて鳴く」と言います。その動作の最初、当初に焦点をあてて言います。 過去からの流れの中ではじめてのときは「始めて」、 今の状態をさかのぼってその当初をいうときは「初めて」ということです。 「始めて」は「やっと・ようやく」、事態の発生の遅いことを、「初めて」は「たった今~したばかり、なったばかり」と覚えておけばよいでしょう。 ですから「雨始めて止む」は、雨がずーっと降り続いていて、やっと止んだ、ようやく止んだ。「雨初めて止む」は、雨がやんだばかり、となります。 杜牧の「華清宮に過ぎる」
歓楽にふけるあまり、安禄山の軍に中原の地が占領・破壊されてのち、やっと玄宗は驪山を下りた。 「始」は、やっと、ようやくの意です。 白楽天の新楽府「五絃の弾」に「始」「初」の二つが使われ、また「得聞」もあります。
(遠くから来た人が)感嘆して言った、「今日たった今、初めてこの曲を聞きました。いままで聞いてきた曲は、耳をだましてきただけだと、やっとはじめて分かりました。」 「初得聞」は、初めて聞く機会を得たということ。「初」は今日が最初、「始」はこれでやっと、ということです。 否定の「不」が下につくと、否定を強調します。 初不~ 初めより~せず 初難~ 初めより~し難し 「始」にはこの用法はありません。事態が起こってはじめて、「始めて」と言うのですから、起こらなければ「始めて」などとは言えません。 |
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49 「新」について | |||||
「新」には、形容詞の「あたらしい」、 動詞の「新しくする」、「新しくなる」、 副詞の「新たに」等の意があります。副詞の「新たに」は、「初」の「はじめて」と同じ意味で、 「たった今~したばかり」「~して間もない」ことを表します。 新月 三日月の意味もありますが、東の空に上りはじめた満月、出たての月にいいます。 白居易「八月十五日の夜、禁中に直し月に対して元九を憶う」の「新月」は、のぼったばかりの満月です。月齢ゼロや三日月ではありません。
のぼり初めた十五夜の月、その色に映るのは、二千里かたなにいる君の心。 新花 咲いたばかりの花 新鳥 鳴きだしたばかりの鳥。 新人・新婦 結婚したばかりの嫁、を指すこともあります。 新晴・新霽 雨が止んで晴れあがること。晴れ上がったばかり。 |
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50 「當(当)」「まさに~(す)べし」について | |||||
「まさに~(す)べし」の漢字は、「當(当)」「應(応)」「合」があります。 必然、期待・推測、命令を表します。 漢字は一つですが、「まさに」と読んで、再び返って「べし」と読みます。漢文の時間にやかましく言われる「再読文字」です。 中国語では読むのは一度だけです。 返るのは面倒なようですが、声を出して「まさに~べし」と再読すると、口調がよく、意味もはっきりします。 まず「當(当)」について。意味は二つあります。 ①「~すべきである」 道理として、当然そうあるべきことを表す 陶淵明「雑詩」
時機をのがさず精一杯楽しむべきである。歳月はどんどん去って行って人を待ってはくれないのだから。 韋応物「幽居」
私はもとより愚鈍で拙劣なので、それに満足すべきだと思っている。世俗の栄誉を軽蔑してこうした生活をしているなどと、誰が思いましょうか。 ②「きっと~のはずだ」 期待・予想を表す
あなたは手紙で、帰ってくる時期を聞いてきたが、帰る時期はまだ決まっていない。 ここ巴山では夜に雨が降って、秋の池に水がまんまんと漲っている。 いつか帰ったら、きっと、あなたの部屋の窓辺で灯火の芯を切りながら、 巴山の夜の雨の時の寂しさを話すだろう、その日まで待っていておくれ。 |
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51 「應(応)」「まさに~(す)べし」について |
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「應(応)」は推量を表して「きっと~だろう」、また「~すべきである」。
あなたは私の故郷からやって来られたので、 きっと私の故郷の消息をご存知でしょう。 あなたがこちらへお出での日、私の妻の飾り窓のある部屋の前の 寒梅は、もう花をつけていましたか。
君をしきりに思いだす秋の夜、 そぞろに歩きながら、涼しい空のもとで詩を吟じている。 山の中には人気がなく、松かさがカサリと落ちた。 きっと君の棲む山も人気がなく、世を捨てた君は松かさの落ちる音を聞きながらまだ眠らずにいることだろう。 韓愈 「左遷至藍関示姪孫湘」
お前が遠くここまで来たのは、きっと(何か)考えがあるのだろう。 |
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52 「合」「まさに~(す)べし」 について |
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「合」は「当然」の意。「當(当)」「應(応)」の「~すべきである」と同じです。
月を眺めるべき時節にはいつも月を眺める。 明るく美しい月は、今年が最高だと思って。 五日間風の吹く中に立って空を仰ぎ、 まだ満月になる前から満月になるまで月を眺めた。 陸游の「歳未だ尽きざる前数日偶たま題す長句」に
ついに何一つ心に求めるものはなかった。ただ一生酔郷に住みたいということ以外は。 この「合に~べきに」は「當(当)」に置き換えることはできないようです。 |
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「たちまち」は「忽」のほかに「乍」「奄」「欻」「倏」などがあります。 いずれも仄●です。 「たちまち」は、にわかに、突然、急、早速の意で、熟して「奄忽」「欻忽」「倏忽」なども可能です。 「忽地」もあります。 もし平〇で使いたいなら 「忽焉」「忽前」「奄然」「欻然」「倏然」のようにするとよいでしょう。 「乍」はどうでしょうか。 杜牧の「阿房宮賦」では
という表現が出てきます。「雷鳴が突然とどろく」という意味です。 「乍驚」は、ふいに大音響が起こることを言います。「ふいに」起こるので、はっと驚くのですね。 「忽」は「ふと」と訳すとよい場合が多く、 同じく杜牧の「早行」に
とあります。 葉が落ちる音にふと目が覚める、の意です。もちろん、たちまち目が覚める、でも良いのですが、「ふと」の方がニュアンス的により良いようです。 白楽天の「琵琶行」にも
とあります。 詩の雰囲気から「ふと聞こえてきた」のほうが、「突然、急に」より良いように思います。 詩を読んで「忽」が出てきたら、「たちまち急に」だけではなく、「ふと」と訳してみて、どちらが良いか考えるのも楽しいです。 |
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「開」は、「門がまえ」があるので「門が開く」が原義とされています。 原義がそうだからと、「開」だけで門が開くという意味にはなりません。 門が開くなら、きちんと 門開 門開く と言います。 門が開く、というのは、閉じていたものが開くということです。 「開」には結びつく漢字があり、なんでも「△開」ということはできません。 「△」が使えるかどうかは「△開」の使用例があるか調べないといけません。 「望」(ながめ)は「開」と結びつきます。大漢和辞典の「開」に、「ひろがる」の意味で 江望南開 江望 南に開く の例がありました。 川の眺めが南の方にひろがっている、と。 日本語では「ひらけている」とも言えますから、「ひらく」「ひろがる」「ひらける」は日本語の読みや解釈の仕方によって変わってきます。 漢文では単に「開く」と読んでかまいません。 「開」の他の意味に、「ひろげる」「きりひらく」「やぶれる」「申し開く」「説く」などがあります。 |
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「雲開」はどう解釈しますか もし、「雲開ける」と読んで、「雲が空に広がる」と解釈する人がいたら、それは誤りです。 例えば、日照り続きで雨が欲しい、そう思っていると「雲が開けて」雨が降ってきた、と。漢文で「雲開ける」という読み方はちょっと聞いたことがありませんし、それが「雲が広がる」とは決してなりません。 前回見たように、「開」は閉じていたものが開くことが原義ですから、 雲開 雲開く → 空をおおっていた雲に隙間ができ、隙間が開いていく →雲が去る →空が晴れる、となります。 高適の詩に
とあります。汶水(川の名)に垂れこめていた雲が晴れて遠くの舟が見えるようになった、ということです。 雨雲がみるみる空を覆っていく様子は、蘇軾がうまく詠っています。
雲が空に広がり、空をすっかり覆ってしまうことは 雲合 雲合(がっ)す という言い方があります。 雲が無くなるのは 雲盡 雲尽(つ)く 雲消 雲消ゆ です。「盡」は仄●、「消」は平〇です。
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「花開く」は分かりやすいですね。蕾や、閉じていた花が開くことです。 日本語では咲くと言います。 王漁洋の「再過露筋祠」
「開・白蓮」は「白蓮・開」(主語・述語)の語順が正しいのですが、平仄・押韻の関係で主語と述語を入れ替えたものです。 意味がきちんと通り、平仄・押韻の関係で語順を入れ替えないと句が構成できない場合は、入れ替えてもかまいません。 花が咲くには「発」も使えます。 花發 花発(ひらく)く 「発」は、「開」よりも急で、ぱっと開く意味合いがあります。 庾肩吾の「摘梅花」に
窓辺の梅が、昨日まで咲いていなかったのに、今朝見ると咲いていた、と。 「始」は、「はじめて」。事態がはじめて起こったことを言います。 「初」と「始」の違いは、前に説明しました。 「開」は平〇、「發」は仄●です。単に平仄だけで使い分けることが多いと思いますが、「発」が「ぱっと開く」であることを意識するとよいでしょう。 |
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「帆開」は、「△開」の例です。 「開」は、「雲開く」「花開く」で分かるように、閉じていたものが開く、ということです。 「帆」の場合は、風がなければ垂れさがっていますから、「帆開く」は風をはらんで帆がいっぱいに開き、舟が進んでいることを表します。 杜牧
百里かなたまで、帆が風をいっぱいに受けて開き(=帆をあげて)進みゆく舟の姿がはっきり見える。 「開」と結びついて使えるかどうかは、用例を調べてください。むやみに「△開」と造語してはいけません。 「開」に限らず、漢詩では勝手な造語はいけません。必ず用例を探してください。 「開筵」は、「開△」の形で、ここの「開」は「ひろげる」の意味になります。 李白の有名な「春夜桃李の園に宴するの序」
「瓊筵」は美しい敷物。「筵」は竹製のむしろです。巻いてあったのを広げた、ということです。 「坐花(花に坐す)」は「花が咲く木々の下に座る」ということ。花に上に座ったのではありません。 |
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意味は、二つあります。 ①春回 春回(かえ)る/春は(かえ)る 春回(めぐ)る/春は(めぐ)る →春が再びめぐりくる → 春になる ②春回 春回(かえ)る/春は(かえ)る →春がめぐり去る ①の「回」は「めぐって元にもどる」の意で、春が戻ってきた、春になった、ということ。 用例を見ましょう。 陸游の「雪晴行益昌道中」
②は「めぐりかえる」の意。用例は少ないです。この意味の時は、題名や前後で分かるようになっています。 用例は同じく 陸游 「春晩書懷」
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夢回 夢回(かえ)る/夢は回(かえ)る →夢からさめる 用例をみましょう。 清の王漁洋の「慈仁寺秋夜懷舊」です。
転句は、「夢からさめて、さて憶(おも)いおこすのは湖南の寺のこと」の意。 夢がさめるのは、「夢醒」「夢覚」でもかまいません。 「夢回(かえ)る」は「夢がさめる」。うっかり間違えそうですね。 |
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読み方と意味は、 夢繞 夢繞(めぐ)る/夢は繞(めぐ)る →夢(の中)で~をめぐる 用例は清の 王漁洋の「秦淮雜詩」
承句、「夢は繞(めぐ)る~」と読んでいますが、「~を繞るを夢(ゆめ)む」と読んでもかまいません。 「夢(の中)で、秦淮の水のほとりの妓楼をさまよった」。あるいは「秦淮の水のほとりの妓楼をさまよう夢を見た」。 「夢はめぐる」という読み方がシャレています。 李白は「夢遶」と「遶」の字を使っています。意味は同じです。 「太原早秋」の頸聯
「夢(の中)で、月の照る辺塞のまちをさまよった」。 |
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![]() 「丿」(へつ)「乀」(ふつ)と「画軸の中」 |
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「丿」(へつ)「乀」(ふつ)は、漢数字の「八」の左払いと右払いです。 「丿乀」」(へつふつ)でゆらゆら揺れることを言います 。 今回これを取り上げるのは、作詩の時にこのような特殊な漢字は使わないように、と言いたいからです。 出典が即時にわかり、おおむねは、その出典以上の良い詩にはならないからです 。 「画軸の中」は、絵の中、ということで、似た言葉に「如画(画の如し)」「如画中(画中の如し)」「如画裏(画裏の如し)」などがあります。 「如」は「似」でもかまいません。 これも詩では使わないようにします。 なぜなら、「絵のようだ」と作者がいくら力んでみても、読者にその美しい風景が目の前に浮かばなければ、詩として成り立たないからです。 「丿」(へつ)「乀」(ふつ)と「画舳の中」が使われている元の詩を読んで、それがいかにすばらしい詩か、使われている漢字がすべて活きていることを確かめてみれば、安易に使えないことが納得できます。 (教室では何度も話していますから、耳にタコができているかもしれませんが・・・) |
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この漢字・表現を含む詩は、日本漢詩です。 寺門静軒の『江頭百詠』。
漁舟が西へ東へとゆらゆら揺れながら墨田川を通っている。岸辺にはススキの白い穂と黄色くなったカヤが生い茂り、まるで画軸の中に描かれた画のようだ。突然、いったい誰が筆で点を付け加えたのだろう、一列に並んだ雁が秋の空を下って行く。 「画軸の中」の景色は起句・承句で表現されています。これで十分絵のような風景が見えてきます。しかし、ここで終わらないのがこの詩の良い所です。これで終わったら「丿(へつ)乀(ふつ)」は全く活きません。活きなければ無駄な言葉ということになります。 絶句の承句の下三字はとても重要です。『はじめての漢詩創作』(白帝社)でも述べています。この「画軸の中」が起点になって転じ、後半が構成されます。 「画軸」と言ったので、転句で誰かが筆で点を書き加えたと言います。どのような点かと言うと、結句にある情景、つまり一筋につらなった「雁」を描いた点です。水墨画で「雁」を画くとき、「丿(へつ)乀(ふつ)」と、チョンチョンと描いていきます。つまり、タテ長の画軸の空白部分に、「八八八・・・」と縦につらなる雁が描かれた、というのです。 起句であまり人が使わない面白い漢字をあえて使ったのは、ここで雁の「丿(へつ)乀(ふつ)」を視覚的に示すためだったのです。 「秋空に下る」はタテ長の画軸であることとも関連し、かつ遠近感を出しています。 言葉がすべて繋がり、言葉がすべて活きています。詩は、こうでなければいけないのです。 「一縄の寒雁秋空を下る」は、一本の縄のように雁が連なって碧く澄んだ秋の空を遠くへと飛んで行く景色です。 詩の前半は近景ですから、これで立体的にさらに素晴らしい一幅の画になりました。 |
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